司馬遼太郎氏が歩いた道を辿るお花見散策
小阪駅を出発点として新装なった自宅と、建築家安藤忠雄氏設計の司馬遼太郎記念館長の解説を拝聴した後、氏の足跡を紹介するビデオを拝見。柔らかな円をなして11メートルの高さに伸びる書棚に整然と並ぶ蔵書を眺めていると、氏の頭脳の中を散策するかのようで圧巻。 ご夫妻で散策された舟板塀の小道や神杜、お地蔵様に参拝しながら、長瀬川で花見をと欲張ったが、年の桜は駆け足で散り去った後、桜の花ぴらを浮かした桜茶をすすりながら、旭堂南海氏の、二十二歳で討ち死にした木村重成の話で花が咲いた。香を焚きこんだ鎧兜に身を包み、名馬に乗って桜のように散り急ぐ夫への儀に、後に未練を残さぬように自害した妻の思い。敵兵の首検めした家康は、鎧から立ち上る芳しい香りにつつまれた凛々しい若武者の心意気に感服し、伊達政宗に生きていれぱ、わが娘の婿にと言わしめた木材重成が噺くかって愛馬と共にこの地を駆けていったという見てきたような講談に聞き入った。 散策するにはまずまずの天気、解散後に雨が降り出し水入らずで無事解散。湿地帯を八人の衆が切り開いたところから八戸ノ里という解説から始まり、身近な散策路に点在する古の戸口、改めて関西の歴史の深さを痛感。 1 司馬遼太郎記念館 歴史小説と斬新な文明批評で読者をひきつけた作家司馬遼太郎氏の記念館。司馬遼太郎さんは平成8年.(1996)2月12目、国立大阪病院で死去。72才。 経歴によると、大正10年(1923)8月大阪市浪速区神田町生まれ、本名福田定一、昭和16年大阪外大蒙古学科、昭和18年学徒出陣、翌年中国東北地京方(溝州)牡丹江省四平陸軍戦車隊、昭和20年栃木県佐野に帰国して終戦。以後、一時、新聞記者を経て、薯述業を続ける。 昨年11月1目、司馬邸隣地に司馬遼太郎記念館完成。 建物は地下1階と地上1階。地上1階は吹抜け11mの書架。庭は遼太郎が好んだ雑木林に囲まれいていた。 2 小阪ムラ・船板塀 もとは「小坂」、鎌倉期に名が出てくる。河内国若江郡で建長4年6月3目の証文目録が残る。北条時頼が執権の時代。のち上小阪、中小阪、下小阪、宝持となり、明治22年に合併し小阪村となる、 船板塀は環濠集落の名残りか。司馬さんが散歩途中迷子になる程、中小阪は旧村のたたずまいを残している。 3 弥栄神社 もとは牛頭天王と称されていたスサノオノが祭神。創祀不明、天正の石山合戦で村落と共に焼失したといわれる。境内の松の根元に洪水のあとが残る。明治5年、現在名になった。 4 小坂神社 310年程前の元禄の頃、下小坂を拓いた人たちが、当時、ムラの近くを流れていた旧大和川(現長瀬川)の水利と水難のため、大和国吉野の水分天神と袖振山の受神をまつり、子守勝手神杜といっていたが、明治5年に現在名に改称した。 5 末広そば 1司馬遼太郎宅の近くに住み、亡くなる前目まで司馬邸にそぱを届けたという。先生のご愛用は「ざるそぱ」、みどり夫人は「アゲカレうどん」。 大阪下町の匂いがする。手術用輸血にも馳参じた大の司馬ファン。三角公園にお店あり。 6 ヤマジン 小阪商店街のお菓子屋ヤマジン(奥利平)。 司馬遼太郎は「雀のたまご」のはかり売りを1キロ、2キロと買っている。 |
7 延命寺 寛文2年(1662)頃、石清水八幡宮の祠のそぱに堂宇を建て、地蔵菩薩を安置したのが始まりで、大正13年(1924)に現在地へ。浄土宗の尼寺である。 鎌倉期の木造地蔵菩薩坐像は4.25mもあり、ヒノキ材の寄木造で大阪府下屈指のもの。寺の本尊木造阿弥陀如来立像も藤原中期の作、府の有形文化財になっている。
8 樟蔭女子大 大正6年(1917)の設立。森平蔵が高等女学校が狭き門になっている状況を突破するため、私財を投じて私立樟蔭高等女学校をつくり、「近代的で洗練された女性の育成」をめざした。昭和24年の学制改革で女子大学に昇格させ進取と自由の校風をつくった。 作家の田辺聖子、上方舞の山村若佐紀は同校の出身。 講堂は創立当時の建物。 9 長栄寺 もと真言宗高貴寺の末寺で現在は正法律根本道場新真言宗本山となっている。山号を「百済山」。府の文化財になっている十一面観音立像(木造)は高さが106cmの一造り、藤原時代の仏像として有名である。 寺伝によると延享元年(1744)〜宝暦8年(1758)に慈雲尊者が荒れた寺を興し梵学の研究で名を馳せ、梵学律梁を大成した。本堂の天井に龍や慈雲尊者像、長尾の滝にうった蔓龍庵禅那台などの逸品がある。 lO 鴨高田神社 『延喜式』(巻九) にのせられた古杜。 祭神は大鴨積命、八幡神にスサノオ命を併せ祀っている。 地名の高井田が旧大和川がつくった微高地からつけられたと推察される。杜殿は大阪夏の陣で焼失し、現存の社殿は江戸期のもの。北西約1キロに弥生時代の高井田遺跡あり。 | |||
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