大坂蘭学の始祖・橋本宗吉伝   −大坂蘭学を志した群像を探る
  
 
日  時:2002年 8月 2日(金) 午後7時〜午後9時30分
講 師:作家  柳田 昭 氏
会 場:大阪市立難波市民学習センター
     

            
 現在必要なことは前世紀、20世紀の総括だ。それをやったうえで今世紀何をやっていくのかを考えることが大切だ。アメリカの作家であり評論家でもあるスーザン・ソンタグ氏は大江健三郎氏との往復書簡『未来にむけて』で、次のように述べている。
 「近代は個人の欲望の解放や利己主義、金銭的な価値の勝利」を世界的にもたらした。その結果、「いま、多くの人々が何らかの行為の動機として理解できるのは、三つだけ。金銭と快楽と健康」になり、従来から人間社会を成立させてきた「だれかの役に立つという利他主義」、「他者という概念は暗黙の内にあって、信義や誠実、高潔さなどの形で現れてくる」そんな道義的価値が極度に衰退していると指摘している。
 今世紀の課題は道義的価値を取り戻し、競争の原理・立身出世主義から、助け合い・連帯へ飛躍的に転換することだ。今日のテーマはそのお手本となるものを探っていくこと。それは身近にある。わずか200年前の大坂の町人学者たちだ。
 では、その町人学者たちを生み出した大坂町人社会とはどんな社会であった
のだろうか?


T江戸期の大坂の特徴
幕府の大坂に対する目論見
 秀吉の大坂は『天下の台所』であった。あとを襲った家康の大坂の料理方針は4つある。
@ 大坂城を壊して幕府による新大坂城を建てて、秀吉時代を一掃すること
また、新大坂城は外様大名のおよそ4百万石の合力で約10年間をかけてで改築された。これにより大名の力をそぐことができ、なおかつ仕事があるので人が大坂に帰ってくるという、今の政治家が見習いたい手腕である。
A大坂を西国からの反乱の防波堤とすること。
家康は薩摩と毛利が攻めてくることを恐れていた。有事の際は熊本城で防ぎ、次は姫路城、それも落ちたら大坂城、と家康は江戸防衛に神経をつかっていた。
B京都の都市としての実力剥奪と朝廷の監視、湖上輸送の衰退と伏見商人の引き上げ。
C大坂を江戸への物資の補給基地とする
江戸の人口の半分は何もつくり出さない武士である。誰がこれを食べさせるのか?最大の消費都市江戸へ大坂から物資を運ぶのである。

大坂の特徴
@町人の町であった。
大坂の人口30〜40万人に武士の占める割合は1500人程度。切り捨て御免できる人が100人に1人もいない。江戸は2人に1人が武士であった。江戸の町人はどれだけ腰を屈めていなければならなかったことか。プライドが無いと何もできないことを思うと、このことは大きな意味を持つ。
A大坂城は城代管理の空城。
最初の4年間だけ戦後処理に外孫の忠明をおいたが、その後の250年間大坂城は城主のない空城であった。
そんな城はほかにはない。力を持ちすぎることを恐れた家康は親戚すら大坂城の城主にはすえなかった。
B天下の賄い所
全国生産の10%を大坂で生産した。米は150万石集散、諸藩の蔵屋敷130.
C日本最大の産業都市であった
商売の町であっただけではなく、作り出す力もあったことが重要。輸出もできないと金が外国へ出ていくばかりになってしまう。最大の輸出品は銅。この南蛮吹きの技術は住友の二代目友以の時代に習得したものであるが、住友はこの技術を秘伝にしなかった。17〜20件あった銅吹屋の皆に教えた。これにより外国への輸出分は全て大坂で製錬することができた。


                 住友銅吹所跡 (大阪氏中央区)  ⇒

D鎖国制度の中で長崎と並ぶ国際都市であった。
最大の輸出品を作っているので、最初の銅座を設立したのも大坂である。シーボルトは「この地に貿易の本源をみた」と言っている。
E安全で清潔
住民自治によりふん尿やごみ処理が進み、当時の都市として世界でもっとも清潔で安全な都市であった。
F懐徳堂から適塾にいたる学都大坂
 大坂にはこのような特徴がある。商売人の町であったと簡単にくくってしまっていてはいけない。
 頭を押さえる者のない自由な空気の中で、物を作る力と、それを商う力と、情報を有しながら、日々「この町は儂らの町や」というプライドを持って生きている。このような条件が揃っておのずと自治の精神が生まれてきた。
 この特徴を持つにいたるまで100年かかっている。じっくりいかねば急にはできないのである。

真の町人社会への転換には何が必要だったのか
@幕府が何を言ってきてもビクともしない力、生産力
 この力を持ち得たポイントは、
 イ)寛永15年(1638)、輸出品統制のため大坂銅吹屋が銅の精錬を独占することになった。
 ロ)元禄年間に別子銅山を操業したこと。
   これによって原料の確保ができた。
 ハ)宝永元年(1704)、大和川のつけかえが実現したことによって15万石以上が洪水の被害を受けずに収穫できるようになった。

A自立を可能にする指導層
 イ)寛永11年(1634)、家光が大坂へ来る時の土産に地子銀(土地・家屋に賦課される税)の永久免除と、それ以前は惣年寄の任命制であった町年寄の公選制を許可された。町人達が信頼できる人を自分達で選んで良いことになったのである。
 ロ)宝永2年(1705)、淀屋の闕所
   大名貸しの残高は銀1億貫目、金に換算すると167万両で幕府の年間収入に相当する額である。
   特権商人、御用商人の支配が終幕を迎え、大坂の商人は1つのものに頼るのは危いということを学んだ。

 こういった背景から「商人と学者の二つの顔をもった」新しい町人指導層が登場することになった。
世界には様々な分野で天才を発揮した巨人はいるが、経済活動の主体と学問の保護者と学問の主体を1人で兼ね備えた存在は稀有である。


U大坂町人学問のあらまし
大坂町人学問の特徴
@立身出世が目的ではない
 自分の食べ代は自分で稼いでいるので、したい学問をする。純然たる真理の探求をすることができた。
A秘伝的でない
 立身出世が目的でないので競争する必要がない。だから作風は共同的・連帯的である。
B解釈するのではなく、実践的である。
 まずやってみる。


懐徳堂
 一般に知られる懐徳堂の特質は「町人による、町人のための学校」ということであり、制度的に開かれているとか、お金にうるさくないとか、商売が忙しかったら帰ってもいいとか言われているが、これでは学問の中心とはなれないだろう。懐徳堂の偉かったのは学問の内容が優れていたことである。
 
 懐徳堂は享保9年(1724)、五同志と呼ばれた富裕な町人たちによって設立され、2年後には幕府の認可を得て半官半民の大坂学問所になった。
 しかし、儒学者仲間からの学問的評価は「ぬえ学問」と言われてかんばしいものではなかった。懐徳堂の設立の目的は日常生活上の実践道徳を説いて町人を教化することであったため、学説の違いをあげつらうことは意味のないことだったのである。

 転機は宝歴8年(1758)、設立から34年後に訪れた。2代目学主中井甃庵死去にともない、その後を継いだ中井竹山・履軒と共に五井蘭洲は「朱子学一尊」の方針を確立した。
 もうはや儒学・仏教・神道がごちゃまぜの学問の時代は終った。この「異学の禁」を境に我が国儒学界の総本山への道を歩み始めたのである。とはいえガチガチに凝り固まってしまったのではない。
 
中井履軒は儒学者であるが、麻田剛立の行った犬の解剖所見をなかなか書かない彼に代わって「越俎弄筆(えっそろうひつ)」と題して著述した。越俎とは俎板すなわち自分の領分を越えて、という意味である。
 履軒はその他にも服部永錫が作った顕微鏡をみて「顕微鏡記」を書き、享和2年(1802)には自ら太陽暦を完成して「華胥歴」と名付けている。
 


        「越俎弄筆(えっそろうひつ)   中井履軒手稿 ⇒

 中国の朱子学は人間については考えているが、天についての考えが観念的であった。雷は神さまが暴れているとか、地震はナマズのしわざであるとか言っていたのでは社会についてもきちんと考えることができない。懐徳堂には天文学の知識があったので、そのような誤りをすることはなかった。自然そのものについてきちんと観察したとき、人間社会についてもきちんと考えることができるのだという姿勢を貫いた。
 
 懐徳堂がこだわったのは「格物致知」。自分が学んだことをきちんと生かして物に至るという考えであり、「人の気質は不可変」として、学問と修養によって道徳を身につけることはできないとする荻生徂徠を論駁するために全力を傾けた。

 中井履軒は「悪キ語は孔子ト云モ執ルヘカラズ」という立場を堅持しながら、蘭学にまで越俎をして、学問の垣根を取り払った。
 それが大坂の学問に影響を与えた。
大坂では町ぐるみで蘭学を育てたといっても過言ではない。


《後記》
 講師の柳田昭氏の近著「大坂町人学者たちからの伝言」を読んで、一人ひとりにさいた頁数は少ないのに熱い息吹が伝わってくるなぁと感じ入っていた。講義は期待に違わず面白くて、大坂を再認識できた。大坂はダイナミックな素晴らしい都市であった。
 「自分はしゃべりンなので、この8時間もんのレジュメをどうやって2時間に縮めたらいいのか…」。
冒頭の予告通り、時間が迫り講義は後半3段飛びとなった。しかし、どうして大坂はこんなに気概あふれる町人学者たちを生みだすことができる社会になったのかという過程を知らなければ意味がないだろう。この講義の続きを心待ちにしている。 









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