住まいから学ぶ
日 時:2002年 9月 21日(土) 午後2時〜午後5時
講 師: 大阪市立住まいミュージアム 館長 谷 直樹
氏
住まいのミュージアムは遊び心あふれる博物館で前から好きだった。今回は館長の谷直樹氏のご案内で、館内に原寸大で復元された天保初年の大坂の町並みの中へタイムスリップした。天保時代(1830−1844)は大坂が一番繁栄していた時代だそうだ。 ビルの8階から細長いエスカレーターで最上階へ昇ると、拍子木の音やざわめきが聞こえてくる。並んだ瓦屋根を見降ろしながら、耳に心地良い桂米朝師匠の解説を聞く。眼下に広がる町内の裏長屋にはクマさん八っぁんが暮らしたのだろうからぴったりだ。館長曰く、「ふつう博物館は国宝やコレクションを展示していますが、ここでは町並みを展示していて、声が人間国宝です」。その町並みは桂離宮の解体修理をした大工さん達が江戸時代の工法で新築したものに、松竹の美術監督にも相談して、「エイジング」古さを演出する手法を施したのだという。しかし、この贅沢には理由がある。 さっそく9階に下りて170年前の大坂の暮らしを体験してみる。
まずは、木戸を入ってスグの風呂屋「天神湯」で町内の紹介の映像を見た。 天保初年、大坂の人口はおよそ36万人でアジアでも有数の大都市であった。大坂は北・南・天満に分かれて大坂三郷と呼ばれており、庶民文化の発達した都市であった。1789年の寛政の大火で大坂の町はほとんど焼けてしまったので、「大坂三丁目」はその後に再建されたものという設定になっている。 華やかで、しかも細かなところまで心配りされて丁寧につくられた町家、そして整然とした町並みが大坂の特色であったという。典型的な町家は「職住一致」で、表に「店の間」の業務空間、奥に「台所」や「座敷」の居住空間と接客空間がある。 通りを挟んで北側には木戸門の脇に建具屋があり、小間物屋、唐物屋、呉服屋、しもたやが並んでいる。 木戸門を入って南側には風呂屋があり、人形屋、本屋、町会所、路地をはさんで、合薬屋がある。路地の突当りには祠があり、路地裏には裏長屋がある。 風呂屋で見た案内によると、合薬屋の丁稚は名を庄吉といい泣きミソで、小間物屋の手代はなかなかの男前らしい。 風呂屋を出るとちょうど夜が明けるところだった。 空がだんだんと白みはじめて、スズメがチュンチュン鳴く声が聞こえてくる。住まいのミュージアムにはちゃんと時間の移り変わりがあって、25分間で24時間が過ぎ行く。午過ぎには物売りの声がする。にわかに暗くなったかと思ったら雷が鳴った。夕方には空が赤く染まり朧月が浮ぶ。やがて暗くなり行灯に火がともる。また朝が来た時に嬉しいと感じてしまうから不思議だ。 建具屋 店の名は「畑屋」、主人の名は畑屋次兵衛で4人家族、奉公人は1人である。屋根から突出した店印の月形を抜いた看板が目をひく。隣の小間物屋共表長屋の借家住まいである。大坂は借家が多かった。 小間物屋 店の名は丸屋、主人は丸屋三郎兵衛。3人家族で奉公人は2人。髪飾りや化粧品を扱っている。 唐物屋 店の名は疋田屋蝙蝠堂、主人は疋田屋杢兵衛。5人家族で、奉公人は3人。話題のエレキテルや渡来の珍品を商っている。 この店だけは寛政の大火で焼け残った築後100年以上の建物という設定で、本瓦葺の大屋根と通り庇を持った古風な構えをしている。古い建物らしく、「古さ」が演出されている。柱の外側は風触で木の目がたってざらざらしているように、内側は手ずれてつるりとなったように仕上げてある。軒先は瓦の重みで少し垂れ下がり、壁も傷んだようにしてある。 呉服屋 店の名は布屋、主人は布屋歌右衛門。6人家族で、奉公人は5人おり、相当手広い商いをしている。 店内は通り庭を挟んで上店と下店に分けられ、上店は絹を主とした太物や反物を扱い、下店は木綿や古手を扱っている。商品が陽に褪せないように表に長暖簾を吊り下げている。 仕舞屋 格子をはめ込んだ閉鎖的な表構えのこの家は正月屋伊助の住まいで、商売はしていない。伊助は町内で大きな米屋を営んでいたが隠居して店をたたみ、家を建て替えて敷地の裏に借家を建て、その借家経営や高利貸しによって生計を立てている。 風呂屋 屋号は「天神湯」で、「ゆ」と大きく染め抜いたのれんがかかっている。天満屋与兵衛と家族と奉公人が住んでいる。 のれんをくぐると高座があり、ここで湯銭を払うのは今と同じ。 、つまり男女混浴。洗い場は石敷きになっており溝が掘ってある。桂離宮の大工さんは名前にかけて見るためだけのものを作ることはできないと、本当に使えるように作った。水が流れるように勾配がつけてある。この嘘のない仕事が仮想の町に奥行きをつけて真実味を与えている。 浴槽に入るには湯気を外へ逃がさないように工夫されたざくろ口をくぐって入る。ざくろ口の上の唐破風が美しい。 人形屋 主は鯛屋作右衛門で2人家族、奉公人が2人いる。隣の本屋とは二戸一で建てられている。 店先に並ぶ独楽をまわして大人や子供が遊んでいた。「わし、よう来まんねんで。ちょうどこんなとこで育ったんですわ」と話しておられた。 館長によると、平日の来館者は65才以上が60%をしめ、なつかしいと口コミで広がっているらしい。「昔ありましたなぁ」と入館者同志が話しこんでいたりするという。 本 屋 店の名は「文海堂」。主人は吉文字屋歌助で家族は4人、奉公人は2人。新刊本、古本の他人気の役者を描いた浮世絵も商っている。 町会所 屋根の上に火の見櫓がそびえており、梯子には「町役人之外登るべからず」と書いた板がかかっている。 毎月2日は「二日寄合」と称して町内の家持による会議が開かれる。この時には奥の座敷が使われる。 寄合の後には飲食を共にするので、裏口から覗くと座敷には膳が用意されていた。 合薬屋 店の名は肥後屋、主人は肥後屋丈右衛門。6人家族で奉公人も6人。この町一番の金持ちで、町年寄を勤めたこともある有力者である。「ウルユス」という蘭方薬を調合販売しており、暖簾に書き連ねた効能書きを見ると何にでもきくらしい。 「空ス」をばらばらにしてカタカナ読みをすると、ウルユス。お腹を空にする、つまり下剤のこと。実際にあった万能薬で、モデルの肥後屋も実在した。 中庭の奥の土間には水屋、4つ口のへっつい、走り、水壷が並んでいる。170年も前の生活道具なのに、60才の私の母が使い方を説明してくれる。聞けば子供の頃に使っていたと言う。この間まで生きていた道具なのだと驚いた。座敷の奥には便所と内風呂まである。 座敷の壁はもみじ色の大坂土の上塗り仕上げで、床・棚・付書院の座敷飾りを備えてあり落ち着いた雰囲気についくつろいだ気分になる。昼寝をしても構わないと館長のお許しをいただいた。風変わりなミュージアムだ。 裏長屋
路地の祠は大坂三丁目が町中で祀っているもので、商売繁盛・家内安全の御利益があるとのことで、町内の住人から篤い信仰を集めている。 江戸時代は寿命も長くないこともあって、意外にも核家族の小人数の暮らしであったのだそうだ。 どの店にも奉公人がいる。いつも家の中に他人が居るというのはどんな感じなのだろうか。子供の時から親と離れて奉公にあがらなくてはならないのはつらいことであったろう。 戦後の復興 ― 近代の大阪
面白い仕掛けがたくさんあって書き尽くせない。何度でも訪れる度に新しい発見があるだろう。 住まいについて、暮らしについて、ゆっくり考えてみるのも悪くない。 「大坂町三丁目」は4月末から7月末にかけては夏祭りのしつらいに変わるのだそうだ。 「住まい劇場」の石井美千子さんの人形は、ほんまに子供てこんな顔してるなぁ、と唸ってしまった。 |