日  時:2003年 3月 22日(土) 
講 師: 作家  柳田 昭 氏 
コース: 淀屋屋敷跡→山片蟠桃屋敷跡→《休憩》平岡珈琲店 →橋本宗吉絲漢堂跡 →住友銅吹所跡


 ■寒の戻りの淀屋跡
 気温6℃、小雨パラパラ、淀屋橋のミズノ前大川端に集まった総勢13名、みな完全防寒のいでたち。スタートは、ここ「淀屋の碑」から。高さ2・5b、幅3bほどもある立派な石碑で、ちゃんと大川から米俵を運び込む人びとのレリーフを刻み込んで堂々たる姿。
その冬の名残りの風の中で、柳田先生の説明が(スピーカーの調子ワルシ。センセ、ごくろさま)。――ここがあの天下の長者"淀屋"の屋敷跡であるそうな。といっても、西は今の西肥後橋にとどき、南は心斎橋筋にまで至っていたという(一軒? ・・チガウの、淀屋一族が街を形成してたの)。でもって、米問屋というより「米市場」なのよ。なにせ、イロハ順に名づけた48棟もの米蔵があったというから(すっごいよねえ!)。その米市場のために、自費で淀屋橋を架けたってえから、現在の金持ちとは、ケタが違う(金持ちは、よっく見習うように!!)
 さらに、この淀屋一族、材木商や青物市場(野菜です)、魚市場までやってたそうだから、これはもう大阪経済を一手に仕切ってたことになる。そ、17世紀の話ですよ。江戸初期ね。初代が、いろいろあって、徳川家康に気に入られていたの。



 でも、あの平家(ヒラヤと読むなよ!)の例えもあるように、90年後の5代目のときに、「町人にあるまじき驕奢の振る舞い」と咎められ、財産没収・所払いになり一朝で没落。時のご当主は19歳だったそう。そして没収になった財産は当時「銀一億貫目」(今ならさしずめ2000億円位か?)。

 で、ここからが柳田先生の真骨頂――この顛末を見た大阪商人たちは、"学習"したのだ。そ、ご公儀というものの専横さ、横暴ぶりをネ。だって、没収になった銀一億貫目というのは、全国の大名や武士たちが借りてた金がほとんどで、そのまんま棒引きになったのだから(・・ずるいぞッ!)。
 ま、当時は"士農工商"とされた時代だから、町商人たちも、自分たちの力の弱さを再確認した格好ですナ。ご公儀など一つ所に頼っていたのでは、いかなる盛名も、きわめて脆弱である、と。

 で、ここに"自助自立"という精神が芽生えることになる。そして、そのための基盤を"学問"に求めるようになったというのです。この17世紀の出来事をきっかけに、大阪商人たちが、お上に頼らず、自立するために学問に依ることを自覚し始めたというのは、なかなか健康的でダイナミックな発想をしたものと、注目してよいハナシです(いや、序々に培われたもので、そこの経緯は、次の18世紀に舞台は移るのだ)。


■山片蟠桃の家の跡は夢の跡
 ヤマガタバントウと読む。これが、ごっつエライおひとやねんナ。1748年生まれとか。1820年に名高い『夢の代(しろ)』という書物を書き上げた。なにが偉いかってえと、これがすでに今でも立派に通用する近代合理主義に貫かれた教育書なんですナ。全十二巻の大著です。どれくらい近代合理的であったかというと、なにせ辞世の句(?)が「地獄無し 極楽も無し我も無し ただ有るものは人と万物」という、もうほとんど唯物史観に到達してるんだから。地震はナマズが暴れるせいって信じられてた、あの文化・文政時代にですぞ。でもって、もっともっと驚くべきは、彼が商人(あきんど)だったということ(・・だって、他に例がないもの。もっぱら武家の時代ですから)。

 先のミズノの裏へ1,2分も歩くと、もう時代は19世紀はじめ。あの山片蟠桃の屋敷があったという場所(中央区今橋4−4)に出る(・・近くです)。いま、料亭になっている。「松乃? つる屋?
(・・だって、一枚の看板に二つ名が書いてあるんだもの)」。なんと、これほどの人物の旧宅跡なのに、石碑のようなものはない。なんの名残りもない(・・市役所は、ナニしてるんだ!!)。

 彼は、米仲介や大名貸しの商家「升屋」に務める身であったが、若くしてあの庶民の学校・懐徳堂(1726〜1869)へも通っていたようで、ここ大阪の地には「商人と学者の二つの顔をもつ、新しいタイプの町人」が生まれつつあったのね。商売のほうは、山あり谷あり、なかなかタイヘンなめにあっていたよう(・・なにせ仙台藩はじめ42藩以上と米取引きをしていた商人蔵元だから)。
 で、彼55歳のときに、3000年に一度世に現れては実を結ぶという伝説の桃の実「蟠桃」と号し、決然と筆を起こし、実に73歳の没する直前に、あの大著『夢の代』を脱稿するのである(・・アタマが下がるなア)。それも、最後の数年は、目を酷使したせいか、目も見えなくなって口述筆記であったそうな(さらに、アタマ下がる・・)。も一つ、彼が真に偉大であったのは、大商人と大学者を実現した"双頭の鷲"であったばかりでなく、さらに三つめがあることだ。

 それは、学問の"保護者"としても、卓越していたこと。まだ"蟠桃"を号する前の41歳のとき、この大阪の地には本格的な蘭学者が一人もいなかった。そこで、大阪町人有志たちから資金を募り、「橋本宗吉」を、江戸へ留学させているのである。宗吉は、傘の紋書き職人で、当時27歳(・・すごい優秀だったんでしょうねえ)。それにしても、この蟠桃というおひと、大人物なんですねえ。これについて、柳田先生は、(ここは傾聴あるべし!)当時の大阪商人はいわゆる「利他( 他人様の為に利す )」の精神がきわめて高く、現代のような「金銭、快楽、物欲」を追う態度とはゼンゼン違ウと強調されていた(・・イヤ、ほんに、深クウナズカサレル)。

 で、この宗吉というのが、やっぱしスゴイ。大槻玄沢の蘭学塾「芝蘭堂」にほんの4ヵ月入門しただけで、じつに4万語というオランダ語を習得して帰阪(・・夜もロクに寝なかったんでしょうなあ)。これで、もう大阪一帯では唯一人の蘭語使いだから、西日本中から門弟が集まったそうな。
――ここまでで、あの淀屋以来100年がたつ( いや、まことに学成リ難シであります)。しかし、彼らが徐々に亡くなり、さらにあのシーボルトが最新の日本地図を国外へ持ち出そうとする事件などで、幕府の圧力が高まる中、蘭学の灯が消えかかる。しかし、ここに再び大阪蘭学の灯を点す男が登場する。誰あろうあの「緒方洪庵」大先生であった(パチパチ、拍手)。


■光り輝く洪庵と妻と適塾
 あの明治という時代の、大輪の花を多数輩出させた適塾(=適々斎塾)については、他所でもよく聞くことができるが、柳田講話はちょとチガウ。すなわち、あまり知られていない適塾前史から始まる。

――緒方洪庵氏は、まことに周到にこの塾を立ち上げているのである。まず@ 強力な教授陣が必要というわけで、長崎遊学の往復に佐賀の大庭雪斎はじめ、これはと見込んだ人材に頼み込み、彼らは塾の立ち上げと同時に大阪へ馳せ参じる A長崎にて当時最新にして最高の和蘭辞書『ヅーフ・ハルマ』を入手し、塾生みなが閲覧できるよう常備する(当時、大阪には旧い『江戸ハルマ』が二、三あったのみ) B(注目、チューモク!)クニの親から勧められていた縁談をダンコ断り(・・当時としては珍しいことヨ)、先輩の娘である「八重」さんと婚約し、長崎から戻るとただちに祝言。これは有象無象の若者たちの母親役として、洪庵が塾運営の要として重要視していたからだそうな(・・たしかに弟子の福沢諭吉が著した『福翁自伝』でも、このお八重さんのすぐれぶりが特筆してあります) C当時、大阪では他郷の武士は家屋を買えない決まりだったのだが、このお八重さんの父親の知り合いの名義で適塾の家屋を入手したんだと(代金は分割払いとかで、江戸期末まで洪庵先生払つづけだったそう・・・ゴクロサン。塾経営って、儲からなかったのかねえ)。

 これだけ用意周到に準備して、適塾がスタートするのだが、まだまだ洪庵先生は徹底していた。彼は本業は医者なんですよ。町医者として同時に開業もした彼はもともとからだが弱かったらしいのだが、診療はもちろん往診も断ったことがなかったという(いや、著名なセンセイは代診や結構断ってたらしいんですよ、当時も)。
 さらに、当時の私塾はけっこう面倒な塾則をもうけ、門限や箸の上げ下げまで煩いことを言うておったらしいのですが、当適塾はたった一つ「塾生の間は、翻訳書を出してはナラズ」というものだけ。
未熟のものは為すべからず、かとも思うが、柳田先生によると、ちょうどあの高野長英が"蛮社の獄"で悲惨な最期を遂げたことから、前途ある若者が追われることになるのを心配したんだそうな。そう、生半可な知識をひけらかしてはケガのもと、ということですな。
診療の合い間には、当時九州に発した伝染病コレラ(虎狼痢という恐ろし気な名がついて、ころりとたちまち死ぬから、コロリと呼ばれてました)など医学の研究に熱中し――すなわち、この洪庵先生、開塾以来、町医者・医学者・教育者という三者を備えた大巨人として大きな足跡を残すことになるのだが、それにはちゃんと準備も効いており、やはり脈々と大阪町人の自由闊達ぶりを受け継ぐおひとであったようで(そ、これが大阪の血脈なんですぞ)、以降の活躍は、本もたくさん出版されていますので、そちらのほうで勉強してくださいな。



☆★閑話休題 (ちょっとCM?)
 小雨さえまじる天候の下、一行13名は、自家焙煎コーヒーと手作りドーナツの店"平岡珈琲店"へ(・・ホッ、ひとやすみ)。
お店<中央区瓦町3−6−11 541−0048御堂筋線本町駅下車1分>のご好意で貸し切り。このお店というのが、ナント! 1921年創業という大老舗。それに、ナント! コーヒーがメチャ美味い。さらに、ナントナント! 揚げたてのほかほかドーナツが…うまいッ!(ムシャムシャごっくん!) 昔、あのあたりの問屋街では旦那衆が通い、丁稚小僧さんたちの憧れのお店であったとか。今は、良い時代ですなあ、お金さえ出せば、このような名店にも平気で入れるのんですから。とくに、コーヒーにウルサイかたには超おススメです、是非どーぞ。



■さらに寒い夕刻、住友銅吹き所跡にて解散
 真の大阪商人の精神を尋ねる旅は、さらに続くのだった。大阪の町のど真ん中を南下すること30分、まるまる中央区を縦断し、西区を斜めに横切ると、やってきました天王寺区は島之内1丁目。
住友銀行の事務センターという、ちょっとこの辺りには似つかわしくないごっついビルがある。

 こここそが明治9年に廃されるまで続いた「住友泉屋銅吹屋」の跡である。"銅吹き"とは、江戸初期に始まった銅の精錬のこと。これがやっぱしゴッツイのだ。精錬銅は当時、日本からの輸出品総額の70lを占め、これをここ大阪で独占的やっていたんだと。とくに柳田先生が声だかにおっしゃるのは、当時の住友が偉かったのは、純度99lまで精錬する最新の"南蛮吹き"の秘法を、大阪の銅吹き屋みんなの相伝にしたこと。でもって、吹き屋職や関連職人が全部で3万人にもなり、その家族を合わせると9万人に達したとか。大阪の全人口が36万人の頃ですぞ。そう、大阪は当時に"天下の台所"であったばかりでなく、有数の産業都市になっていたのであり、ここでも特許技術とも言ってよい"南蛮吹き"を、地元みんなの相伝にして分け合うという、例の大阪商人の"利他の精神"が発揮されていたのだ(…う〜ん、素晴らしいよねェ)。

 住友銀行も、これを記念してちゃんとビル外側に立派なガラスケースをずらっと作りつけ、ここに大田蜀山人著すという「鼓銅図録」、すなわち当時の銅精錬の図解が描かれている(…スミトモ、偉い!)。これをゆっくり眺め、柳田先生のお話しにいちいち頷いていたら、はや夕暮れ、記念写真をとるのも覚束なくなる頃、「う〜ん、大阪商人って、偉かったのねェ、ムカシは」「へェ、自助自立の精神って、伝統あるんだ」と再三再四感心しつつも、もう気持ちは彼方にチカチカ瞬く心斎橋の赤い灯青い灯へと飛び行くのでした(・・だって、寒かったんだもの)。        


 TOPへ戻る