日  時:2003年 4月 6日(日) 
会  場:奈良・尼ケ辻 「福山邸」
真実の庭: 作庭家  古川三盛 氏 
上方に舞う桜物語: 上方学  福井栄一氏
特別ゲスト : 上方講談師 旭堂南海氏



めでたやな 春爛漫の 花宴

 
 

■さくら花 いま盛りなる 路地の奥


 午前10時の大和路、文字通り空には雲ひとつない大快晴、まさに今年の春も定まったかの陽気の中を近鉄・尼ヶ辻駅に降り立つと、「熟塾」の黄色い旗をもったキョンシー石田が"魔除け"のように立っていた。宴(うたげ)の会場は、すぐそこだと言う(ハイ、ごくろサマです)。
 そう、数分も路地をたどると、それはそれは立派な長屋門が。昔のこのあたりの庄屋サマのお屋敷だったそうで、恐れ多い構えである。ところが一歩内へ入ると、これが花盛りのお庭。花だらけ、と言ってよい華やかさ・・・ ちょっと説明のしようがないほど。いや、たいていのひとは見たことの無い光景のはずですよ。

 昔の農家の庭先ふうでありながら、大小の庭石が嫌味なく奥床しく配置され、さりげなく水石や壷、甕が案配よく埋めてあって、そこに大量のソメイヨシノやモクレン、レンギョウ、それに各種のツバキがあふれるほどふんだんに置いてある(?)。そ、飾り置かれているのである・ ・ ・ この不可思議の詳細は、後述します。この絵模様のような空間が今回の花宴(はなうたげ)の会場なのである。

■佐保姫の 花の衣や 枝垂れ哉

 花のあふれかえるお庭の中央に、これはまた息をのむような姿のよい一本の"枝垂れ桜"が。天空に開いた穴から、春の精たちが雪崩れ落ちてきたかのよう。
 ベニシダレというのでしょうか、幾日も前から、原田女史が「キレイヨ、ほんとキレイよ」と顔を合わせるたびに、呪文のように言ってたから、心づもりはあったのだけど、現実に目の前にすると、まず心が立ち騒ぎます、我を忘れます、次いで幸福感がいっきに身体中に満ちてくるような、豊かさ、充実ぶりなのだ。いま自分が、この季節、この日、この場所に在ることの不思議さえ覚えるよう。
一本桜は、どうしても、一枝、一輪に目がいく――それが一人咲く花に対する作法であるだろう。原田流に言うならば、まだ十六、七娘ほどの若桜なのだが、それだけになお初々しい新鮮ささえ兼ね備え、まさに眼福とはこのこと也とおぼえましたぞ。
 
 なお、ここで物知りぶりを発揮すると――枝垂れ桜とは、小さな花をたくさん結ぶエドヒガン種の変種で、かつては糸桜と呼ばれ、箱根山中に偶々一本生えていたのを移植し、その上品さが好まれ改良されたもので、自生はない園芸種とか。若葉より先に花が咲くのは、母種の同じソメイヨシノやこの種など珍しく、とくに紅が濃いものを紅枝垂れと称しています。八重もあるようですナ。

■日盛り音聞くほどに散る桜

 このお屋敷は、正式には「福山家母屋」という。いわゆる土塀にかこまれた富農の農家造りで、廃屋にちかい状態になっていたものを、持ち主でお隣りにお住まいのお医者様・福山嘉和氏が、せっかくの古いものだからと言う、あの薬師寺大工であった西岡棟梁の助言にしたがって、9ヵ年をかけて改修されたものとか。解体時に、寛政十三年上棟(むねあげ)の墨書きが出たというから、もう200年という星霜を越えてきたことになる。
敷地1370平方bに建築面積419平方bの木造二階建て、茅(カヤ)材が手に入りにくくなっているため大きな切妻を持つ屋根は銅板の総葺きになっているが、さすが庄屋筋の旧家と思わせる堂々たる結構であるだろう。
 その際、かつて名庭師を謳われた故・森蘊氏に庭づくりを依頼され、途中で森氏が亡くなられたことから、これも名高い弟子であった古川三盛氏が引継いで完成されたという名空間こそがこの庭である。そして庭中央に、今を盛りと咲き誇る枝垂れ桜は、福山医師が先年なくなられたご母堂の米寿のお祝いに手植えされたものと、奥様の説明があった。ご母堂もたいへん喜ばれ、この桜を愛されたそうで、「花枝垂れ また振り返り 杖やすめ」というほほえましい一句を残されている。物語りのある桜は幸せである。

■花を背に 語る庭師や誉れかな

 まず、襖(ふすま)を抜きはなった広い座敷で、総勢30余名が桜湯をいただきながら、このお庭をつくられた庭師の古川三盛さん(1943年北九州市生まれ、鹿児島大学農学部卒業、1970年独立、京都在)のお話しをうかがう。氏は、嵯峨野の"寂庵"などたくさんの作品に携わっておられ、ご著書も多い。
 長い白髪まじりの髪をうしろで束ね、藍の作務衣姿はいかにも手足れの気配――庭は、写真で見たほうが良く見えるものだ。時空を切り取り再表現する写真にとっては、庭は切り取るのに都合のよい素材であるだろう。一方、庭そのものは取り替えが容易ではない存在であるから、庭に接する人間が長く落ち着いて眺め、あるいは散策できるよう、強いポイントや表現を避け、むしろ日ごと、季節ごと、天候のかわるごとに表情を変え、木々や花々も生長することを考えて、歳々年々移ろい変化することに配慮、されるという。
 とくにここのお庭づくりには、「こだわらぬよう、こだわらぬよう」意識されたそうだ。それは、お庭とかかわる人へ語りかける言葉のようなものだ、とも言われた。また、庭の真実というものは、言葉や写真では伝えられないもの・ ・ ・庭のもつ波長はその庭とかかわる者にのみ共鳴する、現代人には多く失われかけている長い波長なのでは、とも。だから、ここ福山家の庭は、庭以外の何者でもなく、その純粋さはどんなカメラや文章をしても写せないだろう、と。
 
 ・ ・ ・追記しておくと、棟続きになっている茶室の号は「郁乎庵」、イクコアンと読む。福山家の奥様の説明では、曰く、中国古代の「常に二代先のことを考えて治世を施し、そのために戦さではなく、文(化)をもって平和と繁栄を育むべし」と伝える古詩の一句から採られたもので、ご友人であった前東大寺管長さまのご命名であるそうな。そう、文化というものを本当に体現しようとするお人達の、すばらしい出会いが生み出したお庭とこの建物でもあるだろう。ちょうど当日は、あの「千夜一夜物語」の舞台であったはずのバグダッドでは、米陸軍の首都攻略本番の日でもありました。

■壮ならむ 上方学立つ若桜

 次は、あの上方文化評論家の福井栄一さん( 吹田市出身の30代? 京都大学法学研究科卒業,某銀行マンから転職 )のお話しだ。昨年末から「上方学」なる"学"の旗揚げをされ、いま浪花ではもっとも元気のいいお一人。頭の右半分が短い刈り上げで、左半分が長い茶髪というちょっと珍しい髪型でご登場。 桜に因むお話の数々――古代の大宮人が好んだ花は、8世紀の『万葉集』を数えてみたら、萩(140首)、梅(100余首)が圧倒的で、桜は40首ほどとか。すなわち、中国文化の好みが直接反映していたのが、国風が盛んになる10世紀の『古今和歌集』になると、梅が10首ほどで、桜はじつに100首をこえることになり、この頃から、われら日本人の"桜好み"が顕在化してきたらしい。もちろん、今日見る桜とは少しく異なって、いわゆる自生種なのですが。

 桜の歌といえば、まず筆頭にあがるのが西行法師のあの「ねがわくば 花の下(もと)にて 春死なむ
その二月(きさらぎ)の 望月(もちづき)のころ」。桜大好きの法師は、ちょうど旧暦の2月17日に亡くなられたらしいから、今の暦だとまさに3月25日ころ、げに執念のなせる業であります。でも福井センセは「僕はどっちかというと、藤原公経(キンツネと読むらしい)の「花さそう あらしの庭の
雪ならで ふりゆくものは わが身なりけり」のほうがお好みとか。センセお若いのに、シブ好みらしい。ま、キンツネさんは太政大臣(当時最高位は、左大臣であるが、ときにその上に太政大臣が就くことがあった)までお勤めになったかたなのに、「ご自分の身の降り(古び)ゆくのは、いかんとも為しがたかった」ようで、やはり人の仕合わせは奈辺にありやと問いたくなる一句です。

 で、ハナシはだんだんセンセの本領に入っていく。『菅原伝授手習鑑(てならいかがみ)』、桜にまつわる天神様のお話。すなわち、菅原道真(みちざね)公のスキャンダル悲劇が松王、梅王、桜丸三兄弟の悲劇へと拡張していく顛末。それにしても、「匂い起こせよ梅の花・・」と道真公が歌われ、配流先の太宰府へ北野の梅が飛んでいったという話は聞いてましたが、桜のほうは「以後咲くな」と歌われ、北野あたりの桜がついに絶えたという伝承は初めて聞きました。桜は損な役回りだったんですねえ。だって、九州まで飛んで行った梅もタイヘンだったでしょうけど、それでも愛は愛ですもの。絶えてしまったら、もう無シなのですから。
そして、冬はヒイラギ、秋ヒサギ、夏エノキ、春ツバキ、同じくはキリ・ ・ ・ とかいう古い時代のなぞなぞ話しや『祇園祭礼信仰記』など盛り沢山の話題もありましたが、原稿用紙に限りもありますので以後割愛( センセごめんナ)。

■一の谷 見てきたような 南海桜

 そしていよいよ旭堂南海さんによる講談が始まった。無論、桜にちなんだ演目――浄土宗の開祖・法然(ほうねん1133〜1212)が、まだ京都の黒谷(くろだに)で教えを説きはじめたばかりの頃、桜の縁(えにし)でその門下に入ったかたお二人の話である。まず、9歳で両親をうしなったばかりの松若丸という子が叔父につれられて法然のもとへ入門に訪れる。夜分であったそうな。で、法然さん「出家というもの、それはそれは辛い修行に耐えねばならぬ。今日はもう遅いから、明日に覚悟のほどを聞こう、また来なさい」と言うと、この9歳「明日あると 思う心の 仇桜(あだざくら) 夜半(よわ)に嵐の 吹かぬものかは」と歌ったそう。スッゴイですねえ。もちろん、これを聞いた法然さんはただちに入門を許された。この子こそ、後のあの親鸞(しんらん)さんだという。天才は、すでに若木で現れるというお話。

  もうおひとかたは、壮年である。源氏方の武将の熊谷次郎直実(この場合はクマガイと読もうね、クマちゃん。クマガイジローナオザネよ)。一の谷から攻め降りた源氏の軍勢に、平家たまらず海上へ逃げる。戦いが一段落した須磨浦の海岸で、源氏の総大将・義経から戦闘停止の下知が発され、これを受けたあの武蔵坊弁慶が「若木桜折るべからず」と高札を掲げたという。若木桜とは、季節に先駆けて咲く桜で、平家の若武者たちを指したものである。しかし、事情で出遅れていた直実は功をあせっていたのだそうで、汀を駆ける逃げ遅れた武者を見つける。ヤアヤアと呼ばわり騎馬で上下三十六合わせ(ホンマかいな)の末、これを組み落とす。よっく見れば若木桜、手元を離し「逃げよ」と告げるが、この若武者は「この世にて、すべきことはすべてした。見るべきものはすべて見た。名残りはない」と言って、逃げない。やむをえず、直実は首を落とし、兜をはずしてみると、これがまだ十五、六のいかにも若木桜。ちょうど、我が子と同じほどの年頃。そう、平家の公達敦盛(あつもり)公の討たれた顛末であるが、さすがに直実は世の無常を感じ、そのまま辿りついたのが例の黒谷で、法然さんのもとで出家し、蓮生坊(れんしょうぼう)と名を改め、かの若木桜の霊をなぐさめる生活に入りましたとサ。敦盛は、ことのほか美形の笛の名手でもあったそうです。
 ――ともに法然上人にちなむ話ですが、いやあ、講談というのは、いつ聞いても手に汗にぎります。で、花のもとで聞くと、さらにさらに自分がとても贅沢なことをしているような気分になります。ちがごろ得がたい真の贅沢がここにあった(と、ワタシは思う)。

■桜花 今日もかざして 命なり

 さ、お昼は庭に出された檜作りの縁台にて。花見弁当は、奈良「平宗」の仕出しだ。これがなかなかのもの。うらうらと明るい暖かな日差しの下で、まず、きれいな包装紙には、やはり桜の絵が。折りを開くと、煮含めた竹の子なんど季節の煮物や卵焼きの姿さえ、ただものではない。強(し)い肴が二種も。一つは分厚い焼きサワラで、もう一つはナンだっけ。名物・柿の葉寿司がふたつ入って、これは嬉しかった。笹の粽(ちまき)風を、水菓子かと思ってひらくと、なんと牛肉のそぼろ佃煮、これもたっぷりで、よくできていまして。
 ビールの泡を口のまわりに、顔をあげると、お庭じゅうが花、花、花が投げ込み式に飾ってある。枝垂れ。染井吉野。紫木蓮。連翹。そして、椿、椿、椿。それも、かの歌劇「椿姫」に歌われたのはかくやと思わせる、これまで見たこともないあでやかな大々輪のツバキたち。赤。赤地に白斑。白地に赤斑、なかには直径15a超のもある・ ・ ・ただごとではない景観である。

  なにを隠そう、これら花々はかのキョンシー石田こと、またの名を黒ひげタリバン、さらにまたの名をセンバのモンブラン、そう彼は本名がないのであるが(ダレも教えてくれない。北原サン教えて!)、この日早朝に自邸の庭から、大量多彩に斬り奪い、持ち来たり、投げ込んだものだったのだ。 染井吉野なんぞ、サクラ切るバカの三乗といってもよさそうな大枝ばかりの豪胆さ。そのかみ、醍醐寺の桜の大枝を奪い飾って花見をした戦国武将佐々木道誉(どうよ)なみの婆沙羅(ばさら)振り、おひげの伊達振りといい、近頃希れな婆沙羅おのことお見受けした次第( 拍手、パチパチパチ )。来春こそは、石田邸で観椿宴をやるべしっ! 賛成のヒトは挙手っ!! ハイ、賛成多数につきケッテイ!。

■忘れける 久しき旅や 花桜

 仕舞いは、文字通りに先の古川三盛師が、上方舞いを披露された。福井センセの解説では、江戸期から伝わる"大黒舞い"というおどけ踊りのひとつで、本日は「松づくし」…ペンペン、カンカン、シャンと三味の音に、…いっぽんめエにイは池の松 にほんめエにイは庭の松 さんぼんめエにイは下がりイ松・ ・ ・ココノツうは 小松、と手にした扇で、それぞれの松の姿をしてみせる、先般の晩どき妙齢の芸妓が同じものをやったのを見たが、だいぶ違う。いや、上手下手ではなく、昼の日中の花見の宴で、使い込んだ作務衣姿での舞いは、芸妓には見られなかった野趣、といってわるければ、もうひとつの素敵な面白ろ味が確かに見てとれて、繰り返すと、自分がとても贅沢な時間と空間の中に居ることをあらためて、また確実に、感じ取ることができたのでした。ここに居合わせるすべての人たちに、感謝を思わずにはいられない、多分、この日もこの日本の各地で様々にお花見がおこなわれたであろうが、間違いなくこの宴こそ一番であろうと、思わせるものでした、多謝。



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