十二単ってホントに十二枚きてるんだ!!  −頼政恵美子講師  

     
 
 

■着物の来た道


  ここからのお話は、少しく趣きが変わります。でも、「温故知新」というキーワードは変わりませんヨ―― 夏越しのお召しの頼政センセって、きりっと軽やかで、ほんと ス テ キ !の一言。わしら日本の男性陣としては、女性にもっともっときものを着てほしいんだがねエ。さらにはっきり言うと、三一歳以上の女性にネ。そ、さすがに現代では、女性もちょこっと歳をめしたくらいじゃないと、きものは着こなせないようで・ ・ ・ え、セクハラ気味?? じゃ、本題に入りマス。

 【十二単着付けの段;その1】
センセのお話しと併行して、あの十二単(じゅうにひとえ) を最初っから着付けるデモンストレーションが披露されました。ええ、ちょっと可愛い、スタイル抜群のモデルさんが中央正面にだまって立って。それへ二人掛かりで着付けていくんですね。
驚かされることがいっぱいあったのですが、まず驚いたのが、1枚を着る毎に、腰をシッカリ紐で結ぶ。で、さらに上に1枚着て、紐でまたシッカリ結ぶと、下の紐を解いて抜くんですね。それを12回繰り返す。イヤ、これは重労働ですョ。



  そもそも、中国の文化が入ってくるまでの弥生日本人は、ごく簡素なモノをまとっていただけだとか。スナワチ、一枚の布キレの真ん中に穴を開け、そこに首を通して身体にまとい、腰のあたりを紐で巻いただけのような、そ、貫頭衣(かんとうい)といわれるものですネ。ま、南方系の衣服ですね。もう、編み布は卒業してて、織り布がつくられるようにはなっていたようですが。
  ところが、古墳時代といわれる頃になると、男女ともに筒袖に詰め襟に丈長の上着に、男はズボン状のものに、女はスカート状のものを着けるようになる。ズボンというのは、乗馬の必要から作られたもののようで、いわゆる北方系の衣服になるんですね。南方系であったはずが、突如北方系になるって、日本の古代史の謎がここらあたりに垣間見えるようですねえ。そ、中学の教科書で埴輪の人形にそういう姿のがありましたよねェ。


【十二単着付けの段;その2】
そもそも12色も、きものの色が出せるのかと心配になるのですが、これがちゃんとあるんですねえ。となると、色の組合わせって、けっこう難しいから、どう重ねるのかと見ていたんですが。朱や赤の暖色と緑や青の寒色を交互に着せるのかと思ったら、どうもそうでもなく、なんの知識もないまま見てるぶんには、色の重ねかたのきまりや法則性は見つけることはできませんでした。萌黄(もえぎ)や蘇芳(すおう)なんぞの難し気なお色が多いし、柄や文様も入ってるし。
でも、やっぱし、規則やお約束のようなものはあるんでしょうなァ。分かんなかったけど・・。



これが、飛鳥・奈良時代になると、どっと盛大華美な衣装となる。いや、貴族たちがですよ。そう、"世界帝国"を実現していた隋や唐の文化の高波が押し寄せてくるんですね。なにせ、この地球上で最高最大の高揚ぶり発展ぶりを当時見せていた大陸文化ですから、後進国日本はまんま導入していたようですナ。あの遣隋使や遣唐使たちが持ち帰ったのであります。
ところが、危険でお金もかかるしと遣唐使を止めた平安後期から、いわゆる"国風"が盛んになってまいります。そう、さまざまな中国文化を、日本スタイルに消化しだすのです。優雅典麗な貴族文化の華が開花する。この国風がもっとも発揮されたものに衣装があるそうです。
ここにあの十二単( じゅうにひとえ)が登場する。幾重にも極端にきものを重ね、その重さは14〜15`gほどにもなったそう。開放的で広くて、冬寒く、夏暑い寝殿造りの住居構造とも密接に関連していたと思われるとか。

【十二単着付けの段;その3】
着付けもだんだんすすんで、7,8枚目くらいになると、愈々平安期のお姫様らしくなってまいります。むしろ、え〜、まだ重ねるの? って気がかりになってきますが、12枚全部着ると現代のもので全重量は15`cほどにもなるそう。
でも、頼政センセによると、平安時代には"小石丸"とかいう今では珍しい種類のおカイコさんが飼われていて、この糸がごくごく細くて、とても軽い織物がつくれたんですト。だから、現代のものより、だいぶ軽かったのでは、というお話でした。

それにしても、動きにくそう、って思うのですが、当時座るときは、いわゆる"立て膝"スタイルだったらしいので、立ったり座ったりはそれほど困難ではないとか。
一枚一枚をきつく紐で留めてはまた抜くという手法により、着付けはかなりしっかりしているそうで、12枚全部をひとまとめにして、あの"空蝉(うつせみ)"方式というのでしょうか、ほっこり丸ごと脱ぐこともできる、というビックリ話もお聞きしました。





ところが平安時代を頂点に、徐々に衣装が簡略化してくる。まず、鎌倉時代には、唐衣も略したり、表衣を省いたりしだし、後期には小袖と袴に単(ひとえ)だけ、あるいはさらに簡略し小袖だけということになる。時代が、動きやすさを要請しだしたのでしょうか。
室町時代ともなると、ついに下着であったはずのものが表面に出てくる。しかし、商品経済の発達とともに、庶民の衣装にも藍染めや型染め、絞り染めが開発され、小袖にも染めや紋様がほどこされるようになる。さらに、紐も表面に現れて帯としての発展を見せだす。すなわち、ここらあたりに、現代に見るきものの遠い原点が登場してきたことになるらしい。
これに次の時代の安土桃山の頃になると、小袖や打掛に明貿易でもたらされた金箔、金襴緞子、唐織りが、南蛮貿易により更紗や羅紗、ビロードなどが輸入されて、衣装に応用され、さらに豪華絢爛たる様相をおびだすことになる。そ、打掛(うちかけ)って、この頃に上流武家のご婦人たちの定番になるんですって。

【十二単着付けの段;その4】
一番上に金赤色の唐衣(からぎぬ)と表衣(うわき)の単(ひとえ)を重ねると、これはもう堂々たる平安貴族のお姫様ができ上がる。中宮彰子や定子もかくばかりかと思う。溢れる色目や衣の一大集積は、豪奢極まると呼ぶしかないほど。
これはもう、絵にも文字にも表現できませんナ(・・で、あとは割愛ネ)。
さらに本当の仕上りは、これに檜扇(ひおおぎ)を手にして。この扇は、あおぐためのものではなく、お顔を隠すためのものだったと、頼政センセのご説明が。当時の貴族は直接人前にお顔をさらすのは、とってもはしたないことだったそうですョ。





で、江戸時代も元禄期になると、いよいよ現代に見るきものの原型ができあがります。この頃に町人たちが経済力をもちはじめ、生活にゆとりがでてきはじめるんですね。ゆとりって大事ですよネ。
帯の幅だって、初めは4〜5aくらいだったものが、元禄頃には17〜18aくらいにまでなったんですって。菱川師宣の「見返り」美人の浮世絵なんぞに見える姿がそうです。
そして現代――ご承知のとおり、明治以降の人びとの衣装はコペルニクス的大転回と相成り、洋服が登場・普及してきます。とくに現代では99・99%の人が普段には洋服を着るようになってしまいましたが、ここで頼政センセは強調されます。「かつての平安時代のように、これから愈々日本独自の新・国風化がまた始まるのではないでしょうか」と。そ、以上で見てきたように、きもの自体も、時代毎に大きく変化発展してきたんです。ポルトガルやオランダ文化も写してるんですから。これからもさらに変わるハズです。そして、"新しい国風"がすすむ中で、果たすことのできる奥深い文化を、きものはしっかり持っているハズ、と・ ・ ・ そ、ここにも"志"が見えますネ。

【十二単着付けの段;その5】
で、ここからが圧巻。だって、今度は順に逆に一枚づつ脱いでいくんですもの。「センセ、やるなあ!」と思いましたよ・ ・ ・そう、これがまことに、不思議な光景が展開するわけです。
@まず最初は、表衣を取ると、鎌倉時代に主流の袿(うちぎ/うちかけ)姿に変じるわけ。
A次いで、さらに脱ぐと、平安期には下着であったはずの小袖(こそで)姿になる。これが室町時代の風俗で、頭にも小袖を被り、帯もおもてに出てくる。
Bさらに脱ぎつづけ、小袖も多様になり、文様が現われだし、遂には私たちがTV時代劇で見慣れた江戸きもの姿と相成ります――頼政センセも「追加していく文化は多いけれど、減らしていって完成させる文化は珍しいのでは」とおっしゃってましたが、正にその通り、順に脱いでいって、きものの歴史がたどれるってのは知りませんでしたナァ。メからウロコでしたヨ( 拍手、パチパチ )。





――いや、面白かったですよ。よく知ってたつもりだったきものですが、こうしてきちんとお話を伺うと、全体が見通せて、より奥深いものがあることを改めて知りました。・ ・ ・ きものってナンでしょうねェ? 外から見える奥床しさや美しさは、いわゆる長い長い伝統の美として確固たる深いものがあるのですが、同時に着る人の措辞挙動、すなわち立ち居振舞いや話し方、さらには美意識やライフスタイルも併せてデモンストレーション? プレゼンテーション? そう、表現することになるので、中身も相当磨く必要があるんですよネ。そ、女性のきもの姿に、男性はそんなトータルなものを見てるんですよ。ま、そのことは、CCマークやHブランドのお衣装にも相通じるんですがね。




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