寅さんの思い出と共に歩く長田区買い物ツアー

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● 韓国画家 劉光相 震災絵画展

テーマは「地震」。地震発生から程なく5日間実際に被災地を回り、惨状を目の当たりにしました。絵画の現場(地名)については初めての土地で地理感がないので、自分で感じたままをキャンバスにぶつけました。キャンバスは韓国書用に特別な加工を施しています。それは、水墨画なので、普通の油絵用のキャンバスだと墨を弾いてしまいます。今回地震の被害を書くにあたって色目を考える必要はありませんでした。粉塵や煙なので辺りは黒かったから、水墨そのままが自然でした。劉光相氏…韓国・仁川市にある田園美術館の代表であり、日韓両国の数々の美術賞に輝く。
絵を見ていた中村さんの言葉
自分が逃げ惑ったので、絵を見て当時の感覚が思い出されました。写真よりも絵の方が感じが伝わるような気がします。
 

●シューズプラザ神戸梶@常務 正垣純三氏

靴は、長田区の地場産業です。国内の靴の7〜8割は神戸でつくられています。しかし中国などからの輸入も増えており、現在は8割弱となっています。
地震のとき長田区は古い街並、靴の製造をするところが多く、燃えやすいものがたくさんあったため火事の被害が多かったようです。その教訓をもとに、災害に強い街作りを合言葉に区画整理など復興が進んでいます。
震災の年の5月、復興研究会設立。そして、国から7億円、神戸市から7億円、企業から8000万円を出資し、靴の町長田叶ン立し、このシューズプラザをつくりました。
ケミカルシューズ興業組合には、メーカー180社加盟しているが、今までは靴の卸からの一方的な注文に応えるだけであったが、それでは、これから(輸入も多くなっている中で)生き残っていけない。そこで、メーカー独自の靴づくりをし、反対に卸へ提案できるくらいにしなければならないと思っています。つまり、消費者ニーズを掴み、デザイン性、足に優しい靴づくりを目指している。そこで、消費者のニーズを吸い上げるために、メーカーのアンテナショップ的な役割としてシューズプラザの1,2階に11店舗出店しています。3階では、シューズデザイナーが研究しています。
現在震災前の8割くらいまで(靴産業は)復興してきているが、これからが大変だと思っています。
是非、また靴を買いに来てください。毎日履く靴です。靴を通して神戸の人以外にこうして交流できることも大切なことだと思っています。

    シューズプラザ п@078−646−5266

シューズプラザ2F「快足館」松田環氏

メーカーで30年靴を作ってきました。そこで、足もいろいろな形があることを知りました。市販されている靴は、平均的な足の形から作られています。そこで、「平均的な足の形ではない人のための靴づくり」が靴の町長田の生き残っていく道ではないかと思っています。
外国(特にヨーロッパ)は靴文化のため靴にお金 をかけるが、日本は着る物にはお金をかけるが、まだ靴にはかけない傾向にあります。しかし、1日平均して6000歩も歩くのに足に合っていない靴だ腰や骨に異常をもたらします。きちんと採寸して自分にあった靴を履くことが大切です。また年がいくと足の筋肉も老化し甲が広くなり、歩く時のクッショになる土踏まずのアーチも伸びてきます。靴に足を合わせるのではなく、足に合わした靴をお薦めします。靴が合わないと、健康にも影響してきますし、高齢者にとっては歩くのが億劫になると、老化を加速させます。靴選びも、健康への1歩です。
(シューズプラザ2Fの松田さんのお店では、採寸して自分にあった靴を作ってくれます。セミオーダーなので、2ヶ月くらいで出来あがるとのことです)
      快靴館 松田環氏 п@078−646−5192


寅さん地蔵…JR新長田改札口出て右手壁面

  ガラス張りの木彫りのレリーフで仕上げられた寅さんを写した眉毛のホクロと、雪駄を履いたお地蔵様。小さな鞄には、記念誌をフロッピが収納。山田洋二監督の直筆のメッセージ付き。
(寅さんのような男が死んだら、お地蔵さんになるんじゃないかな、と渥美清さんに話したことがある。1995年秋、寅さんシリーズ最後となった「寅次郎紅の花」のロケを長田で行ったことを記念して、人情あつい長田の人たちが、このお地蔵さんを作ってくれた。天国の渥美さんも、さぞ満足だろう 山田洋二)
また、上り下り其々のホームの進行方向のホーム壁面には、JRの呼びかけで集められた一般、芸能人の神戸へのメッセージを焼き上げたタイル3千枚が飾られている


● 中村さんのお店(蕎麦屋 更科)

  中村さんのお店は現在もプレハブです。それは、国の再開発のため強制買収により立ち退きを余儀なくされるために建てかえることができないのです。そのプレハブ一面にツタが枝葉を広げています。中村さんは、この震災から這い上がりたいとツタを植えられたそうです。ツタは六年で建物を包むまでに這い上がりましたが、中村さんをはじめ震災した人々はまだ這い上がりきれていないと言います。また、再開発後にお店をビルの中に開店させるためには、建設期間が5年、そして5000万円もの借金をしなければなりません。中村さんは、60歳という年齢を考えると、借金をしてまでできないとおっしゃっていました。「再開発は本当に理不尽なもの、二度目の被災をしなければならない」という言葉が胸に詰まりました。
            更科 п@078−621−4445

黒焦げになった幹から芽吹いた柿の木

 中村さんが震災に会った柿の木を移植。通常柿の木は移植すると枯れてしまうそうなのだが、震災から5年目の去年見事に芽が出てきたそうです。そして、その柿の木を実際に目で見ました。芽が出る5年間、中村さんは毎日毎日水をやり、寒い日には霜が下りそうであれば、発泡スチロールをかぶせに行ったりしたそうです。その甲斐あって見事に芽がでていました。まだ仮設住宅やプレハブ住宅が残る一角でのうれしいニュースでした。



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足湯温泉

  温泉が出て足だけ浸かれるようになっている公共の場所。手を入れてみるとあたたかく、これから少しでも長田区の人々の心身ともにあたたかくなったらいいなあと思いました。

●崩れたままのアーケード街

  震災時そのまま崩れたままのアーケード。震災を忘れないために残しているのではなく、この辺りも再開発地域に入っているため、取り壊す事も直すこともできないとのことでした。また、アーケードからほん近くのきれいなライオンズマンションは、この再開発の計画で、道路ができるらしく、取り壊される事が決まっているとのことでした。ここでも実際に住んでいる住民と計画のあまりのギャップの大きさに驚くのと同時に憤りを感じました。
●アスタにて 
   パラール名店街会長 上田司郎氏

  アスタは、旧神戸デパートが震災後名前を変えて誕生しました。この周辺には震災前6つの商店街がありました。震災時に殆どが焼け落ち、何人かは命を落としました。また家が崩壊し閉じ込められて、子供の目の前で焼け死んだ仲間もいました。当座は商売ができる状態ではありませんでした。皆まず住むところを何とかしないと、という思いで動き、5月31日には一応住むところを確保できました。それから商売の場を探し始めたのですが、行政に頼っていたのではいつまでも商売ができないということで、テント村という形でダイエーを入れて100店舗オープンさせました。そしてアスタは、現在53店舗入店しています。しかし、1店舗辺りの面積が3〜4坪しかありません。震災前に50坪くらいの規模で商売を行ってきたお店も3〜4坪で商売しているので、当然品揃えが悪く、売上は震災前の1/10くらいになってしまいました。
これではいけないということで、いろいろな取り組みも行っています。例えば五木ひろしさんに来てもらったり、遠いところからも来てもらえるように「ラクチンバス」を運行したり、空き缶集めを行ったり…。五木ひろしさんは、ボランティアで毎年来てくれていました。しかし、アスタからはギャラが払えず、ボランティアだったため今年は申し訳ないと思いお断りしました。今日は、アスタに来てくださってありがとうございました。お買い物をしていただけるとうれしいです。

※上田会長はお話を始められて直ぐに涙声になり、今日のような寒い日でしたと当時の惨状を思い出し、他の事なら泣いてはいられないが、震災の日のことを思い出すと、目の前に亡くなられた方々の姿が浮んできてと、目の前で声を出して泣かれる姿に参加者も頭を垂れるしかありませんでした。何十年も掛かって積み上げてきた自分の城である店が焼け落ち、家族や家を失った心の傷は短期間では癒えません。神戸市が提案している駅前開発構想ではでは何棟ものマンションがその商店街の裏に建ち並ぶ予定ですが、今は空き地ばかりが目に付き、工事の槌音も聞こえません。人がいないのです。お客さんがいないのです。何年先の姿ではなく、商店主にとっては今日の稼ぎが死活問題なのです。店を失いマイナスからのスタートする長田区の商店街の店主たちが肩摺り寄せて活路を見出そうと必死の闘争が続いているのだと上田さんの涙を見て痛感。私たちが出来ることは、人が戻ってくるまで、たまには長田にきてお買い物をさせていただくことではないかと思いました。そして、突然の悲劇に巻き込まれながら、それぞれが自力で生きる道を模索されている長田区の方々の姿に、時として弱音を吐いている私自身も励まされる思いがしました。
           太閤洋装店 078−611−4383


●すたあと長田 金田真須美 女史

先ほどお話された上田氏が「来てくれてありがとう」と言うかわかりますか? それは、"震災のことをわざわざ伝えられに来てくれてありがとう"という気持ちからなのです。私も被災しました。もう何もする気力も無くなっていました。しかし、そんな中、自分のことはする気力がないのに、他人のことを助けてあげたいという気持ちがありました。そこで、被災地の地元の人で「今まで非日常と思っていた光景が(震災によって)繰り返され、日常化されてくるのにどうして行けば良いのか」ということを考えました。そして被災地で炊き出しをやったりしました。今は、お年寄りと障害者の方へおかず5種類とご飯、お味噌汁をお配りしています。ご飯とお味噌汁は必ず暖かいものをお配りしています。なぜお弁当なのかと言いますと、お弁当は直接本人に渡すので、例えば話しをすることができたり、安全を確認できたりするからです。孤独感が強いのは男性です。それは、社会との繋がりを自分からつくることができない人が多いからです。実際にある52歳の男性のケースもそうでした。いつもお弁当をお持ちしているのに、その日に限って返事がなく、胸騒ぎがして行政機関に相談しに行ったのですが、身内でもないので鍵を開けることができないとのこと。それでもやっぱり胸騒ぎがしたので、警察官立会いのもと鍵を開けてもらったら、不幸なことに亡くなられていました。それからは、すたあと長田としてパソコンでデータを取って、例えば緊急時に連絡できる身内の連絡先などを瞬時に把握できるようにしていきたいと思っています

最後にアスタの地下1階のこの広場は、誰でも自由に使いいただけますが、外部からの方々にお使いいただいたのは今回が初めてです。広場にはクララベーカリーさんなど地場のお店などで通販などができるところの情報もあります。もし購入する場合は、紙に書いて広場内にある専用ポストに入れていただけたら、1週間に2,3回すたあと長田のメンバーが集めに来て手配させていただきます。
今日は、ありがとうございました。
         すたあと長田 078−521−7170



 〜 レポート by 熊谷京子&山岡美穂 〜





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