薬の町・道修町と神農さん
講師:少彦名神社 宮司 別所俊顕
日時:1998年9月9日(水曜日) 午後6時〜8時半
会場 :
少彦名神社 3階ホール  

(ページ : 2/4)

 神農さんは、頭に角があるような非常に怖いお顔をされており、口には薬草をくわえているような絵図が多くあります。神農さんは、中国の原野を歩いて薬草を探したと謂われています。
 江戸時代の川柳にも「神農は、たびたび腹を下しけり」「神農は、のこぎり草で舌を切り」「神農は、質草ばかりは舐めてみず」等と神農さんが登場しております。ですから、本神社は日中の神様をお祭しております。

民活で三郷が自治運営、町人が主役の大坂の繁栄
 さて、江戸時代の大阪の町はどのようなものであったかを、文久3年(1863年)の地図をご覧頂きますと、お城を中心に、東横堀西横堀、長堀、土佐堀川に包まれた船場は、まさに四方に船を着ける事ができる場所であったという事がよくわかっていただけると思います。江戸時代に入ってから、次第に周囲が埋め立てられていき、次々と新田が現れますが、江戸時代の大阪はごくごく狭い地域であったという事がよくお解りいただけると思います。

大阪は、三郷と呼ばれ「天満組」109町、今の本町通りから北を「北組」250町、道頓堀辺りまでの南部を「南組」261町と、3つの自治組織がありました。各組には総会所という役所があり、この辺りの北組惣会所は、今の平野町の「さかう」という料理屋さんの所にありました。

当時は、武家地と寺町、町人町に大きく3つに分かれるのですが、大阪の町は75%が町人の町でし、今の谷町9丁目辺りの一角が寺町でした。武家町は大阪城を守る各地より任期毎にやってくる城代の武士と、堂島川界隈の蔵屋敷の武士、天満の所にある与力や同心が住まいしていました。江戸時代の同心は位の低い武士でしたが、二百坪の屋敷に住んでいました。与力は、四百〜五百坪の家に住んでいたようです。同心や与力は、本来は世襲性ではないのですが、大体は世襲で大阪の武士が継いでいました。
                           
                 右上へ →

火災に強い上等な大阪の町屋と町並み
 天保(1840年)は、大阪には蔵屋敷が129あり、慶応末年(1867年)には141ありました。
 江戸は火事と喧嘩は江戸の花と言われる程多かったようですが、大阪でも大きな火事が31回ありました。この辺りで関係する所では、「道修町焼け」が宝永5年(1708年)12月29日に、道修町の淀屋橋筋(現在の御堂筋)から出火し、北は過書町、南は平野町、東は槍屋町が焼け、町数では65町、家数では1501軒、竈数(かまどすう=現在の所帯数)7491軒ありました。家数と竈数が会わないという説があるのですが、大阪の家が、入り口があると、鰻の寝床のように奥が深く、そこに何軒も借家がありました。家としては、一軒ですが、竈数は1つではありません。また、借家の中には、竈と便所を共同で利用していた様なので、焼けた家数と竈数が合わないわけではありません。江戸時代は、収支改め帳、収支人別帳があり、人口統計はけっこう正確でした。
 大阪の大火で他に有名なのが、享保9年(1724年)3月21日の「妙知焼」、天保8年(1837年)2月19日の「大塩焼」同心町から火をつけ大阪中が焼け落ちてしまいました。ただ、江戸に比べると、大阪の大火は少なかったようです。
 それは、建物や町並みにも関係があります。この辺りは、「両側町」といって道を挟んで南北に向かい合った家並みが並び、家の裏側に背割り下水が走っていました。
 またその下水を挟んで蔵が立ち並んでいました。蔵は土蔵ですから、出火した時は防火壁になりました。表が焼けても、裏の蔵が焼け残ったりもしました。大阪の家は、江戸に比べて上等でした。大阪は一般の家の屋根は瓦葺で壁は土壁でしたが、江戸は一般の家の屋根や壁は板葺きでしたので、いったん出火すると類焼しやすかったようです。

道修町に住む事が薬種仲買中間の条件
 この頃の道修町の特徴は、間口が5〜10間、奥行きは20間、背割り下水があり、道幅が3間でした。これは、薬種仲買仲間になる為には、道修町1丁目から3丁目までの間に住まなかればならなかったので、道修町3丁目の平面図をご覧頂くと、鰻のような寝床である1軒の家を区切って住んでいたようです。道修町の表通りに店を持つことが、ステータスでもありました。
 また図1の道修町3丁目町内図で、現在も続いているのが「田辺屋五兵衛」が「田辺製薬」に、「大和屋清兵衛」「北垣薬品株式会社」に、「塩野屋吉兵衛」が「塩野香料」から「塩野義製薬」に分かれていきます。屋号は、近江屋や大和屋などは、親戚や別家、暖簾分けした店などが同じ屋号を名乗っていました。ただこの中にある「小西志な」という小西は屋号ではとなく、苗字です。小西家は、もともと町人ではなく武士の出身でした。
 

 


次のページへ進む

『概要報告』のページに戻る