道頓堀川遊覧・夕涼み川柳船

講師:
番傘川柳本社 編集長 田頭良子氏
日時:1998年7月4日(土)

 風任せの講座である。昨年は、台風一家が通り過ぎた正に余波を受け、「天気晴朗なれど、波高し」で道頓堀へ船を出すことが叶わず、伊勢戸佐一郎先生と夕闇夕空に涼しげに浮かぶ青白い三日月を眺めながら、大川を夕涼みがてら水上散歩にでかけた。一年が過ぎ、また蝉の声が耳の中で一杯に響く時期が来た。蝉たちが、全身を振わせ一夏の短い恋に命をかけている。今年は、不気味な程に台風が来ない。梅雨がまだ明けてはいなかったが、今年は、晴天に恵まれた。集合場所に、焼けたコンクリートを踏みしめながら、三々五々参加者が船着場にやってきた。

 まずは、番傘川柳本社の田頭編集長から、川柳についての短いレクチャーをうけた。五・七・五の十七字の短詩で生活や世態等人々の営みを描写するのが特徴らしい。川柳を書くのか、恥をかくのか、解らないままとりあえず出航。木津川に向かい、遊覧船がゆっくりと岸壁を離れる。橋を潜る。正に、潜るという表現が相応しいほど橋の欄干が頭上に覆い被さってくる。水都が沈みつつあるのではという思いが、最近の大阪の景気の悪さと重なってよぎる。様々な浮世の憂い事を陸において、船の上でお弁当を広げ、冷たいビールで喉を潤す。船の速度が上がると、前方の淀んだ空気が切り開かれ風が舞い立ち、船上の人を涼しやかに包み込む。川風が心地よい。出航して十分ほどで、右手に大阪ドームが姿を現す。宇宙船のようなドームを見ながら、船が左手に廻りこみ、道頓堀川に入っていく。両岸に様々な人々の暮らしが広がっている。暫く行くと、見慣れた風景が橋の上に乗っかっている。白鷺が賑やかな一群が乗込んだ船の気配を感じて慌てて羽を広げて目の前から飛び立っていった。まだ辺りは明るい。夕涼みに欄干からぼんやり眺めていた人たちと目があう。思わずどちらからということなく、手をふっている。落語の野崎参りで、船の上の人と、岸を歩いている人とのやり取りがあるが、きっとこんな風だったのだろうとのどかな雰囲気を彷彿とさせる。

食事がおわると、慌てて白い短冊形の紙に、川柳らしきものを書き始める。一方、昨年の劇団熟塾講演「なまはげ来たす!」で自慢の民謡を披露いただいた斎藤さんに三味線を持参頂いた。歌詞を配り、にわかに船上が民謡酒場に様変わり。どんぱん節や、炭坑節など、マイクで歌うと両側のビルの谷間に反響する。その道頓堀川で三味線の演奏で民謡を歌う奇妙な一群を乗せた船を、戎橋の上から斜交いに眺める人々の影。船が道頓堀川をゆっくりと旋回している間に、段々と夕闇が迫ってくる。気が付くと、道頓堀川の噴水と滝のライトアップが、まるで松竹座の花道の様に両側を照らす。その間を船がゆっくりと進む。なんだか、舟乗込みする歌舞伎俳優の気分。更に、ほろ酔い加減の参加者の顔を、ネオンが頭上から眩しく包み込まれると、噴水に飾られ、ライトアップされた道頓堀川の光の花道をゆっくりと巡った後、もときた川道を戻る。戎橋界隈を抜けると、後は船の周りに取りつけられた提灯の明かりだけが川面に揺れるだけの闇が広がる。大阪ドーム辺りから、闇が更に深くなり月が川の上から船を眺めている。)

川柳とは 川柳も俳句も五・七・五で詠みますが、俳句は花鳥風月を詠み、川柳は人間すなわちその中に人の心を詠み、人間を表すことが必要です。
番傘は、その全身である関西川柳社を西田当百が明治四十二年に創立この発行人が岸本水府で、その後大正二年番傘創刊号が出ました。全国に数えられない川柳結社がある中で歴史、同人数から言えば、番傘が今年で九十年を迎え、同人数も千四百人で日本一であり、本格川柳を志す者の集まりです。番傘の傘下に百の小さい支部に値する川柳会が全国的にあります。
「上かんやへいへいと逆らわず」という西田有百の川柳が、法善寺・正弁丹吾の店の前の句碑に、食満南北の「ぬぎすててうちがいちばんよいといい」、岸本水府の「大阪はよいところなり橋の雨」「道頓堀の雨に分かれて以来なり」「盛り場をむかしに戻すはしひとつ」という句碑が相合橋北詰の句碑に刻まれています。 〜田頭良子〜


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 さて、ここで田頭編集長にお選びいただいた作品発表。ほとんどが、番傘のベテランメンバーの作品が上位を占め、その間に熟塾のメンバーの作品が、モグラのように顔を出す。選からもれた塾生には、敗者復活ならずも、田頭編集長の作品集をジャイケンで分け合う。また関所のような低い橋を潜り乗り場に戻る。記念写真を取り解散。陸へ上がると、風がなく、蒸し暑い。船に乗って涼を得た夕涼み川柳船に乗り合った人々も、暫し船に身を任せていたものの、風まかせの陸での暮らしへ戻っていった。(原田彰子)
塾生の川柳(田頭編集長選)
・  一斉に 橋を拝んで くぐる船  亀山縁
・  好きやねん 揺れるネオンと 夕焼けと 内藤光枝
・  阿波座から 日本橋まで しゃべりずめ 田中爽也
ユーモア賞夕暮れに 小じわは見えぬ 舟あそび 萩原典子

 舟あそび 昔の人を 想いつつ  中林典子  
 薄暮れの 川風涼し 三味の音   中林典子
 宵闇の 日本橋を 下から見  中井正明
 梅雨上り 夏本番だ それビール   杉山英三
 私など とてもとてもと 句をひねり  北信之
 今日の日を まだかまだかと 待ちこがれ   廣盛恭子
 木津川の 汚れと同じ 世の中は   津野英男
 せいてるの、せいてせかんて、いうたやん   西川豪一
 舟あそび 金もないのに お大尽   東口恵子
 ほな行こか 川柳船に 初乗りや   中谷耕二
 ひっかけ橋 見上げてむかし なつかしむ   辻本紘子
 川柳に 胸ときめかし 船に乗り   辻本紘子
 本当は 良い人達かもね 戎橋   市原美智子
 飲み食いを 先に楽しい 遊山船  西美和子
 アベックも 鷺も楽しむ ネオン川  松本あや子
 虎ファンが 飛び込んだのは この橋か   松本あや子
 遊山船 なにわも捨てた ものでない   内藤光枝
 づばらや いろは千房の ネオン浴びる船  村山勇太郎
 船乗り込み わが生涯の 最良日  柴本ばっは
 ひっかけ橋の お陰や思う うちの恋  柴本ばっぱ


                       以上


「水の都 おおさか物語」 大阪市・大阪都市協会発行

納涼の楽しみは舟遊びにおいてまる。近松の「今宮心中」には次のような一節がある。舟遊びが大阪の名物であったことを知ることができる。

「諸国名物のその中々に、類い浪花の舟遊び、老いも若いも下人も主も、男女もござござ舟に、袂すずしき川風は、秋といひても嘘でない…。

「笑いと涙の道頓堀」 
  
新生松竹新喜劇代表・俳優 渋谷天外 

 大阪で最も大阪らしい所はどこかとたずねると、十人のうち、七、八人は道頓堀と答えるのではないだろうか。ミナミのどまん中を道頓堀川が流れ、両岸は食いだおれの中心である。道頓堀川は、近頃は魚も泳いでいるようだが、ひところはドブ川と化し、悪臭がこめていた。私の父、先代渋谷天外(昭和五十八年没)の話では、子供のころはこの川で泳いだり、シジミを取ったりしたという。写真などで見ても、旦那衆が船で川辺の芝居茶屋へ来る様子などがうかがわれる。
近松門左衛門のころ、つまり元禄時代には道頓堀には五つの芝居小屋があった。いわゆる浪花の五座である。歌舞伎や人形浄瑠璃はここでにぎわっていた。その意味で道頓堀は日本の演劇の発祥地といってもいい。
その五座の一つ、浪花座で大阪の喜劇は誕生している。大阪は「お笑いの本場」だとか「笑いの王国」だとかいう。そのルーツである笑いと涙の大阪喜劇は、道頓堀川で産湯を使ったのである。



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