義太夫三味線との出会い & 文楽鑑賞教室

講師:義太夫三味線 竹沢団吾
日時:1998年6月13日(土)  午後1時〜4時40分 
会場:国立文楽劇場

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 昨年6月より、企画している熟塾・文楽シリーズ 第三段「義太夫三味線との出会い」では、竹沢団吾氏を囲んで義太夫三味線の音色を満喫した。
 文楽鑑賞で、初めて文楽の舞台を見た人が釘付けになるのが、実在の男よりも男らしく、女よりも女らしく、舞台一杯に情念を発する人形たち。
 人間国宝の手にかかれば、人形に命が宿る。人形が演じていのではなく、人形が怒ったり、泣いたり、笑ったりするのは、芸の極みというしかない。
その次ぎに目を引くのが、顔中口だらけにして熱演する大夫。特に世話物といわれる市中で起こった出来事の舞台が大阪であることが多く、上方歌舞伎と同様、大阪弁での台詞回し。言葉を語るのではなく、人情を心を語る姿が目を引く。三味線は視覚的には地味、しかし、今回、間近くで義太夫三味線を聞き、お座敷で弾かれる細竿ではなく、客席一杯に響く太竿の魅力を学ぶことができた。
 今回は、鳴門生まれの竹沢団吾氏が講師役。長く細い指先から繊細で表現豊かな義太夫三味線の音色が発せられた。
 文楽では三味線は、時にオペラの序曲のように次の舞台転換を予感させるような曲を奏でる。また人物を音で表現する例をいくつか聞かせていただいた
 町娘の利発さや、裾を引きながらしゃなりしゃなりと歩くお姫様の優雅さ。男性も町人と武士とでは異なるし、一人が登場する場面と多数の武士が駆けつけるのとは異なると、説明を受けながら三味線の音に耳をすますと、その表現力の豊かさが見事だ。舞台では、人形や大夫に目を奪われ、三味線はただの音として聞いていたが、それぞれに意味があった。
 人物だけではなく、商家の賑わいや、住吉神社の前を様々な人々が行き交う様子までも効果音としても三味線は文楽をより劇的に演出していた。また、無声映画でチャンバラの効果音として耳慣れた曲は、文楽では寄せては返す波の音が起用さている。
 初期の文楽ではたぶんこのようないくつもの三味線の表現があったわけではなく、単純な旋律をひくものであったが、同じ演目を何年も上演するうちにより効果的に場面を盛り上げる表現が編み出されてきたそうだ。
現在では日常生活の中で耳にする音楽のほとんどが西洋的なものが多い。邦楽に触れる事が少ない中で、生で義太夫三味線を解説つきで、劇中で演奏される例を多数聞くことができた。
文楽を構成する三大要素の一つの三味線、その中に、文楽を楽しんできた大阪人の暮らしや思やも生きているような気がした。(原田)

文楽鑑賞教室より

傾国阿波の鳴門
解説:父さんの名は十郎兵衛、母様はお弓と申します・・・・・。いたいけな巡礼の娘おつるの悲しい台詞は人口に膾炙して親しまれてきました。「傾城阿波の鳴門」の八段目の「十郎兵衛住家の段」、通称「順礼歌の段」はくり返し上演される人気狂言です。
昭和5年(1768)6月、大阪竹本座再興の際上演されたもので、近松半二・八平平七・寺田兵蔵・竹田文吾・竹本三郎兵衛の合作。全十段からなる時代浄瑠璃で、近松門左衛門の「夕霧阿波鳴門」や並木十輔らの「けいせい陸玉川」などの影響を受けていると思われます。
夕霧伊左衛門の話に玉木家(実は伊達家)のお家騒動、阿波の海賊十郎兵衛の巷説を取り混ぜた作品です。

≪十郎兵衛住家の段≫
阿波徳島の城主玉木家を勘当され、帰参を願う阿波十郎兵衛は、紛失した家宝国次の刀の議を命じられます。主君のためには盗賊となっても 議をしてみせると約束した十郎兵衛は、名前を銀十郎と変えて盗賊の仲間に入り、女房お弓と共に大阪の玉造に住家を求め、日夜刀の行方を追って辛苦しています。
お弓が一人で留守番をしているところへ飛脚が手紙を届けます。それは十郎兵衛ら盗賊の悪事が露見し捕らえられた者もある、早く立ち退け、との仲間からの知らせでした。いまだに国次の刀が見つかるまでは・・・・・・と神仏に願をかけるのでした。
そこへやってきたのは巡礼の娘。幼い時に別れた両親を捜してはるばる阿波の鳴尾から巡礼して歩いていると語ります。その巡礼の子おつるの身の上話にはっと胸を突かれるお弓。おつるこそ故郷に残してきたわが娘だったのです。切々と両親への思慕を訴えるおつるに、今すぐ抱きしめ母と名乗りたい思いにかられながらも、盗賊の罪が娘に及ぶことを恐れたお弓は親子の名乗りをすることができません。心を鬼にして国へ帰るよう諭しますが、母の面影も知らぬおつるにもなぜかお弓が母のように懐かしく感じられて、このままここにおいてくれと頼みます。そんないじらしい言葉を聞くお弓の胸は悲しみで張り裂けそうになりますが、心強くも泣く泣くおつるを追い返します。戸外からはおつるが哀しい声で「父母の、恵みも深き粉川寺、仏の誓ひ頼もしきかな」と歌う巡礼歌が聞こえてきます。それもしだいしだいに遠のいていくと、お弓はこらえきれずにその場に泣き崩れるのでした。しかし、今別れてはもう会われぬと思い直したお弓は、急いでおつるの後を追います。
入れ違いにおつるを伴って帰ってきたのは十郎兵衛。わが娘とは知るはずもなく、おつるが金を持っているのに目をつけ、その金を貸してくれと頼みます。しかし、おびえたおつるが声をあげたのをとめようと、慌てて口をふさいだのが仇となり、おつるは窒息死してしまいます。
おつるを見失い、力無く戻ったお弓はこの有り様を見て、最前おつるがどんなに両親に会いたがっていたのかをまざまざと思い出し、その両親に会いながら親子の名乗りもされずに追い返されあまつさえ、実の父親に殺されてしまった不幸な娘の身の上を思いやって涙にくれます。十郎兵衛もわが手でわが娘を殺してしまったことを知ると、後悔の涙にむせぶのでした。
嘆きのうちにも捕手の迫る気配に十郎兵衛は必至の覚悟。捕手を追い散らすと、おつるの死骸もろともわが家に火を放ち、夫婦は何処ともなく落ち延びてゆくのでした。




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文楽の三味線
 三味線には、太棹・中棹・細棹の三種があります。名称のとおり、太棹が一番大型で音も低くて大きいため、腹から声を出す義太夫節の三味線に適しています。演奏用のバチは象牙ですが、これも厚くて重く、重量感のある力強い音色を響かせます。義太夫節の三味線は、他の音楽の伴奏とはちがって「心を弾く」ことを大切にします。大夫の語りが、音楽性よりも物語の内容の表現に重点を置くのと同じように、三味線もまた曲の心をこめて大夫の語りを助けることが大事です。いかに美しい音色を出し、鮮やかなバチさばきを聞かせても、浄瑠璃の気持ちとかけはなれた演奏では、義太夫の三味線としては適切ではありません。ですから、三味線弾きは大夫とまったく一つの心になっているのが理想です。たとえ三味線の音をたてない間でも、気を抜くことは許されません。
文章であらわす語りとちがって、音色一つで感情を表現するのは至難の業ですが、それだけに、名人の三味線ならば初心者が聞いても感動を覚えるに違いありません。義太夫の三味線にも、もちろん音楽的な美しさはあります。道行きなどの舞踊的要素が多い曲では、5人ぐらいの合奏が行われ、邦楽には珍しいダイナミックな美しさで聞く人を圧倒します。


文楽の歴史
 浄瑠璃が発生したのは、室町時代中期(15世紀)と考えられています。はじめは、盲目の楽人が「平家物語」などを、琵琶の演奏にあわせて語って聞かせていました。ところが、16世紀中頃、琉球(沖縄)から渡来した弦楽器が改良されて、今日のような三味線となり、浄瑠璃もこの新楽器を伴奏に取り上げ、語り物として音楽的にも文学的大きく進歩したのです。浄瑠璃を人形劇に使ったのが、操り浄瑠璃で、慶長時代の初め(16世紀末)のこととされています。もともと浄瑠璃は京を中心とした上方でおこりましたが、まもなく江戸にも移され、江戸時代中頃(17世紀後半)にさしかかるころには数十に及ぶ流派が生まれました。
新しい感覚の浄瑠璃を創案した浄瑠璃の天才、竹本義太夫は、貞享元年(1684)になって大阪道頓堀に竹本座を建てました。そして名作者近松門左兵衛門の協力を得て、大阪中の人気を独占しました。これ以後、浄瑠璃といえば義太夫を意味するほどになりました。

世話物の誕生
そのころの浄瑠璃の内容は、縁起物や武勇伝の要素が強く、類型的で文章も稚拙でした。近松門左兵衛門は、人物のおかれた状況を性格に生き生き描くことに力を入れ、ついに実際に起こった出来事を浄瑠璃にしました。元禄16年(1703)の事です。曾根崎天神の森の情死事件を扱った「曾根崎心中」は、それまでの公家・武家の世界に取材したいわゆる時代物とは別の、世話物という新しいジャンルを確立したばかりでなく、文学的香気の高い作品として、高く評価されています。

竹本座と豊竹座
同じく元禄16年(1703)には、義太夫の弟子が豊竹若太夫と名乗り豊竹座をおこしました。人物の心理描写を重んずる地味で重厚な芸風の竹本座と、華麗で技巧的な豊竹座は、対照的な芸風をもって互いに競争し操り浄瑠璃の全盛期を作りあげたのです。両座の頭文字をとってこれを竹豊時代と称します。
竹本座では竹田出雲・並木千柳・三好松洛の合作で、寛延元年(1784)の3年の間に「菅原伝授手習鑑」「義経千本桜」「仮名手本忠臣蔵」という名作が生まれ、歌舞伎をしのぐ有様でした。
やがて操り浄瑠璃は衰微の道を辿り始め、昭和2年(1765)には豊竹座が廃座し、竹本座も2年後の昭和4年(1767)に83年続いた歴史に終止符を打ちました。

植村文楽軒
文化年間(19世紀始め)淡路島から出た植村文楽軒が、大阪高津橋南詰(現国立文楽劇場の近く)人形浄瑠璃の小屋を建てました。
そして明治5年(1872)劇場の移転を機に、その名称を文楽座としました。明治17年(1884)になると一方に彦六座が旗揚げし、往年の竹本・豊竹の二座対立時代を思わす様な、華やかな一時代を展開しました。人形浄瑠璃の人気は高まり、技芸の向上も目覚ましく、明治の黄金時代を作り出しました。
後の文楽座は対立する彦六座系の大夫・三味線・人形遣いを1つに包含することになり、人形浄瑠璃の古い歴史と正しい伝統を受け継いだものは文楽座一つということになりました。
「文楽」が人形浄瑠璃と同意語として用いられるようになったのはそのためです。人形浄瑠璃はこうして発展し今日に伝えられました。明治42年(1909)文楽の興行権は植村家から松竹に移りました。

昭和の文楽
人形浄瑠璃「文楽」の芸術的に洗練された形式、内容は世界的なものです。昭和30年(1955)、国ではこれを重要無形文化財に総合指定しました。
昭和38年(1963)に文楽は松竹の手を離れ、文楽協会の手で運営されることになりました。この文楽協会をはじめ、大阪府・大阪市・関西財界が、文楽の本拠地である大阪に文楽のための国立劇場を作ることを要望し、昭和59年(1984)4月、国立文楽劇場が開場したのです。文楽はいよいよ新しい時代に一歩踏み入れました。

 国立文楽劇場事業課編集

  「文楽 〜鑑賞のために〜」より抜粋






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