文楽衣裳との出会い & 文楽観賞教室

講師:舞台技術課 専門員 石橋 修氏
日時:1999年6月5日(土) 午後1時〜4時 
会場:国立文楽劇場

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 文楽衣裳について

 
衣装部は、出社する主人の為に、季節や場所に合った服を揃え、ハンカチや小物を準備する正に奥さんの役目と同じだと石橋氏は言う。先ず衣装選び、舞台に立つ人形の頭(かしら)の性根を良く知り、それに相応しい衣裳を探したり誂えたりする。
 更に、人形遣いの個性とか好み、背の高さから指の長さなども考慮する。決して表に出ることはないが、人形の活躍を舞台裏から支えるのが、衣裳部の存在だ。
 石橋氏は、昭和32年に松竹に入社、衣裳部に配属される。当時は映画、テレビ、上方歌舞伎と時代劇の製作が隆盛の時期で、当然、それらに使われる衣裳も大量に必要だった。松竹が文楽の興行を行うようになると、昭和38年より、文楽の衣裳も管理するようになるが、映画や歌舞伎の衣裳とは異なっていた。
 文楽は、最近まで近くの公園で子供相手に水アメを売っていた紙芝居と同じような人形まわしという大道芸に、浄瑠璃という語り、三味線という伴奏がつき、発展していったもの。かっては小さい小屋での興行が多く、衣裳も中間色の地味なものが多かった。人間国宝の人形遣い玉男師匠と「あの頃と比べると、文楽の衣裳格段に綺麗になりましたなぁ」と昔話に語るほどで、今のように国立文楽劇場等の大きな会場での興行が多くなり、舞台用の照明に対応するような歌舞伎のような派手で綺麗な衣装が多くなってきた。
 文楽では、江戸時代の装束が中心になっているが、奈良時代の衣冠束帯の衣裳なども登場する。サイズは、人間用の半分で、デザインも二分の一に縮小して誂える。
 衣裳に関わって42年たつ間に、日本人の生活が変わっていった。特に、日本人の着物離れが著しいうえに、映画やテレビでも時代劇は激減した。時代の流れと共に、京都で着物文化を支えてきた職人さんが減って、衣裳の手配も難しくなってきた。

 又世話物で、例えば明治・大正時代の時代考証で、おめしや、銘仙等は使用できる古着を探すのが一苦労。
 衣裳は消耗品で、歌舞伎などの舞台用とは異なり化粧汚れなどはないが、左遣いなどは差し金などで擦れによる傷みや、主遣いが人形に着付けされるときに、針などを使うために生地が傷むことが多い。人間に近いふくらみを出すために上衣裳にはすべて綿を入れている。
 生地は、絹に、綿、化繊などがあり、絹は高価だが、擦れに強くて軽く、滑りや収縮性に富ぶ。ボタンや菊などのデザイン柄よりも、縞や格子の柄や色使いが微妙で、役柄に応じた柄を選ぶのが難しい。
 次の公演が発表されると、符帳を作成し、どの人形にどの衣裳を割り振るかを書き出していく。符帳は正に音楽の楽譜と同じで、専門用語で細かく記され、全体や部分だけの写真を添付されている。石橋さんは担当した演目すべてを符帳についているので、前の公演の符帳を参考に、襦袢、衣裳、帯、袴等の一式が役柄ごとに速やかに準備できる。
 新作の場合は、演出者や制作と討ち合わせ、時代考証や素材・色・模様などを決定して業者に注文を出す。
 文楽の衣裳担当者は、頭の性根や、人形遣いの個性から生地、デザインにわたるまで、多くの専門知識や経験が必要で、十年はまだ駆け出しで修行中と、一般の社会人とは異なる職人の技と度量が必要との事。
 今回は、様々な生地を見せていただいた、中でも繻子(しゅす)は日本では生産されていないので、中国公演に同行したときに探しまわったが見当たらず、あきらめかけた時に最終地の江蘇省蘇州の工場に広幅の繻子が長々と吊るしてあるのを発見。感激の余り「探し歩いていた白い恋人に会えた」と2ページに渡り面々と記帳したとの事。古典芸能を影で支える世話女房あって人形が表舞台で活躍できるのだと痛感した。
(原田彰子)
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 文楽観賞教室


きいちほうげんさんりゃくまき
「鬼一法眼三略巻」より牛若丸弁慶 五条橋
● 「五条橋」は「鬼一法眼三略巻」の五段あたります。特に有名な牛若丸(のちの義経)と弁慶の出会いのエピソードを舞踊劇にしたもので、牛若丸が弁慶をさんざんにあしらって家来にする話を、人形の軽快な動きと義太夫節独特の重厚な音色が花を添える。


梅川忠兵衛 傾城恋飛脚 新口村の段
● 大阪の飛脚問屋忠兵衛が廓通いをしたあげく金に困り、お屋敷へ届けるため為金に手をつけ、捕らえられて牢死するとう事件が起こりました。これをもとにして、近松門左衛門が人形浄瑠璃の竹本座のために書き下したのが、名作「冥土の飛脚」です。傾城恋飛脚はこの「冥土の飛脚」の改作(菅専助、若竹笛躬の合作)で、安永2年〔1773〕曽根崎新地の芝居で初演されました。改作といっても重要な場面はほとんど原作通りで、さらにドラマとしての起状もより豊かに構成されているため、見た目にもおもしろく、人形狂言の一つとなっています。



《これまでのあらすじ》
新口村の豪農孫右兵門の一人息子は、大阪の飛脚屋亀屋の養子となり商売に励んでおりましたが、ふとしたことから新町の遊女梅川と馴染み、通いつめたあげく金に困り、お屋敷に届けるため為替金の封印を切ってしまいます。当時、封印切りは公金横領とみなされ、死罪は免れない大罪でした。忠兵衛と梅川は忠兵衛の故郷新口村に逃れて来ますが、そこにも捜索の手は伸びていました…。

役人から追われる身となった忠兵衛は、一目親を見たいと梅川を連れて雪の中、故郷、新口村へ逃れてきます。しかし、ここにも捜索の手が伸びており、二人は知人の家に身を潜めます。
 表を通る村人の中に年老いた父孫右衛門の姿を見つけ、よそながら暇乞いをします。孫右衛門が氷に足を滑られ倒れ、梅川は思わず走り寄って介抱しました。見馴れぬ女性の親切に、もしやと気づいた孫右衛門は、手にした金を渡して遠くへ逃げてほしいと苦しい胸のうちを語るのでした。梅川は養家への義理から会えない父と子の胸中を思いやり、顔さえ見なければ義理が立つと、手拭で孫右衛門に目隠しをして会わせます。
 親子は束の間の再会を果たしますが、捕手の迫る気配に孫右衛門は慌てて二人を裏道から逃がします。降りしきる雪の中、遠ざかってゆく二人の後姿を、孫右衛門は涙で曇る目でいつまでも見送るものでした。

     (国立文楽劇場刊 第16回文楽観賞教室より)





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