寅さんの思い出と共に歩く長田区買い物ツアー
● 寅さんを迎える会 事務局長 中村専一氏 寅さんを呼ぼうとしたきっかけは、ボランティアの人震災後慰問為に見せてくれた寅さんのビデオです。避難所での生活に疲れきった人たちが、そのビデオを観るととても明るくなるのです。架空の人がそんなに皆を元気づけるなら、この街を歩いてもらおう、どうせなら映画に出してもらおうと考えました。なんとか山田洋二監督にお願いしたものの監督は「多くの人が亡くなった神戸にカメラを持ち込んだり、スタッフがおしかけることはできない」と言われました。根気強く交渉して、神戸の人々は寅さんに元気付けてもらいたいのだと解ってもらうことができて実現しました。「男はつらいよ!寅次郎 紅の花」は脚本もロケ地も既に決まっていたので、長田区は寅さんの額縁の役目を務めることになりました。寅さんの最後の旅は、震災直後の長田区菅原市場で始まり、マドンナ役のリリーと暮らしていた寅さんが口喧嘩して後再び長田区へ神戸へ帰ってきて皆を見舞うところで幕を閉じたのです。また、出来あがった脚本に付け加えれた最後の菅原市場のシーンは117、1月17日震災の日付そのものだったのです。 映画撮影の秘話はたくさんあります。被災地を見舞う村山首相の後ろにボランティアスタッフとして立ち働く寅さんが写るシーンは、地元のサンTVの協力でコンピュータグラフィックで合成して作ったものです。肖像権の問題で写っている人ひとりひとりに交渉して歩かねばならず大変でした。 渥美清さんが病気の為もうだいぶ弱っておられましたので、山田監督と約束をしました。サインを求めない、記念写真を撮らない、声をかけない、の3つです。撮影の時以外は、寅さん台詞意外話のできる状態ではなかったのです。おなじみのトランクは体力に合わせて発泡スチロールで作ってありました。映画のポスターに菅原市場のシーンで町内会長として出演している芦屋雁之助さんの名前はありません。氏はボランティアで出演するので名前を載せないでくれるようにと言ったのだそうです。私はそれを松竹の人に聞いて感動しました。又、松竹にとって寅さんシリーズはドル箱映画でした。だから撮影はいつもアゴ、アシ付きといって交通費や食事の費用一切はロケ地が負担するのが常であったのですが、山田監督は「松竹は神戸から絶対にお金をとってはならない。」と条件を出して下さいました。これを守って寅地蔵を作った時も松竹は1円の著作権料も請求しませんでした。話は尽きません。記念集をCDにして寅地蔵のトランクの中に入れました。次の世代に伝えていくためのタイムカプセルです。 中村さん自身の震災体験 震災前はおそばを売る以外に何もしたことのない人間でした。それが震災をきっかけに、大学の先生や国連の人、様々な人に出会うことになりました。避難所では悲惨な体験をしました。それを伝えて参考にしてほしいのですが、プライバシーの観点から話すことはできないと悩んでいます。とにかく嫌な思いをたくさんしました。避難所では1つの教室に50人もの人が寝起きをするので、足を伸ばして眠ることすらできません。物を置くスペースが無いので救援物資をもらうこともできませんでした。自宅が潰れなかった人の中には4帖半の部屋がいっぱいになるまでもらって帰った人もいるというのにです。 右上へ → |
●クララベーカリー 石倉泰三氏 (寅さんに登場する大助・花子のパン屋さんのモデル) 共同作業所、クララベーカリーは障害者と共に働くパン屋さんです。(石倉さんは娘さんが障害を持って生まれてきたので、40才からパンを焼く修行をしてパン屋さんを始められました。)ようやく店を始めた矢先、震災にあいました。もう頭の中がまっ白になりました。どうしていいのかわからなくて悩んでいたらメンバーの一人、こうちゃんが作業所に現れて「はよパン焼こうな」と言いました。その言葉にびっくりしました。いったいオレ何をしとったんやろな、と思ってパンを焼き始めました。僕達にできることはパンを焼くことなので、震災直後にどうにか電気や水を手配してパンで炊き出しをしました。避難所に送られてくるのは冷たいパンばかりでしたので、ほかほかの焼きたてパンをみんなとても喜んでくれました。 5月の中頃に作業所の辺りで再開発の土地区画整理があると聞きました。これがまた自分の思ったのとは方向が違ったものでした。肉体的にも精神的にもしんどくなってきたところでした。そのしんどさをなんとか紛らわそうと仲間で話をしているうちに、なぜか寅さんがボランティアで神戸に来てくれるという想定で作りばなしをしていました。そしたら、寅さんが恋するマドンナは私だわと石倉さんの奥さんはニンマリ、そしたら、俺はどないなんやと呟くご主人。夫婦の話を聞いて大笑いするスタッフ。そんな作り話をして数日経った時、石倉さんの奥さんが或る日ふと新聞を見ると、寅さんが神戸に撮影に来るかもしれない、と出ていました。それは中村さんたちの「寅さんを迎える会」の尽力であったと後で知ったのですが、作り話をした後などで驚きました。普段は筆マメでない家内なのですがいてもたってもいられず、山田監督に手紙を出しました。そうしたら3〜4日後に返事がきました。「がんばってください」と書いてありました。何処の山田さんやろうとすぐには誰のことだか解りませんでした。よく見ると差し出し人に山田洋二と書いてありました。監督からの直筆の返信だと、気がついて手がプルブル震えるほど感激しました。本当に元気がでました。撮影に来られたら観にいこな、と仲間と楽しみにしていました。 1995年10月25日のロケの前日まで自分達がモデルになっているとは知りませんでした。映画での「いしくらベーカリー」は私たちがモデルだと解ると、嬉しいというよりとんでもないことになったと部屋の中をうろうろ、なんだかとても怖かったのです。当日は撮影現場はすごい人でした。一言お礼が言いたくて監督とお会いしましたが、思いがつまって言葉がでませんでした。監督は手を差し出して握手をして「よかったね」と言ってくださいました。僕みたいな者に、監督が握手してくださる…。嬉しくて大粒の涙が溢れて泣いてしまいました。そして、寅さんの後ろを歩いて出演するようにといってくださったので、家内と一緒に出ました。それからとても元気がでて、その恩を返したいと思っています。映画の中で使われた「おいしい神戸パン Ishikura Bakery」という看板は、今も私の店の宝物として店の壁に飾っています。 普通はそれでお終いですが、一昨年新しく再建した作業所に監督は来てくださいました。ある日、監督の笑顔が店先にありました。神戸に来たついでだからと、まるで映画の中でふらっと町角に現れる寅さんの様にです。「皆元気ですか。お店は順調ですか。」監督は、スタッフの顔を眺めながら、声を掛けてくださいました。渥美さんは亡くなってしまったけれど、僕は忘れません。僕は寅さんが亡くなったとは思っていません。今でもその辺を「おい、皆んな、元気かい。」とニコニコしながら、鞄を持って歩いているのではないかと思っています。寅さんに感謝したいです。長田区の人々や、日本中の人々が寅さんの映画で元気になれたのですから…。 ※石倉さんが山田洋二監督に励まされたと思い出しながらお話をしている間に、あの日に戻ったように涙ぐまれ、思わず聞いている私も涙ぐんでしまいました。頑張れよという寅さんのメッセージを大切にしたい。石倉さんの寅さんへの恩返しは、知的障害を持っている仲間が自立できるように「くららべーかりー」を営んでいくことと、美味しいパンを消費者に提供しつづけることだと思うのですが…。でも、人に生きる力を与えることができる寅さんや山田監督って素晴らしいなぁと改めて感動しました。 中村翔子著 あかね書房刊 『笑顔の明日にむかって』 神戸・くららべーかりーの仲間たち 1300円 共同作業所 くららべかーりーп@078−578−1929 〒653-0011 神戸市長田区三番町2丁目2−6 J営業時間:10時〜18時30分 定休日:土・日・祝日 | ||
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