人間国宝 七代鶴澤寛治と出会う

講師:人間国宝 七代 鶴澤寛治 氏
日時:2001年1月6日(土) 11:00〜16:00
会場:国立文楽劇場

(4 ページ)

基本を伝え、個性を伸ぱず

 
情景を引くために、義太夫が語る床本はすべて暗記しています。桜は桜の節、雪は雪の節、葬連は葬連の節、遊女の場面では投げ節の基本を弾きます。いくら華やかな場面でも、遊女でなけれぱ投げ節はいれません。節にはやや陰気な西風、やや派手な東風というのがあります。現在は西風、東風の芸風が交ざってきました。文楽は、門閥制度や、家元制度がありませんのに、何故芸風が違うのかといいますと、富士山を書けて言っても、冨士山を墨絵で書く方もございますれぱ、大観さんのように赤富士を書く人もあります。家元制度でしたら、家元が書かれました絵以外はすべて間違いになります。文楽の場合は、赤で書こうと、墨で書こうと、絵の具で書こうと、富士山になって完成すればそれが良いのです。良い絵をかけるかどうかだけです。血筋ではなく、実力があるかどうかが問われるのです。

 親父から「人みて法を説け」と言われ、弟子や大夫を指導してきました。大夫によっては、息の長い人には大きな間で、短い人には攻めて弾くとか、大夫に合わせて弾きます。大夫が主人で、三味線が女房役です。大夫と三味線の相性という意味では、ご家庭のご夫婦と同じで大夫と三味線でも、どうしても合わないとかということもありますし、大物どうしが並んでも両雄相並ぱずで、かえって合わないときがあります。
 三味線を弾けばいいというのではなく、音に深みが出るように勉強してほしいのです。人を思いやるというのは、目本人が古来より持ちつづけ、大切にしていたことで、それを思い出してほしいのです。しかし、これも時代の流れでしょうか。私の小さい頃は大阪湾で海水浴をし、貝も拾って食べましたのに、あっという問に今は泥の海です。染まるのは早いので、手遅れになってから気がついても遅いのです。早く気がついて欲しい。芸の惜しみはしないのですが、住田大夫さんと同様、師匠に云われた文楽の心、怒られながら学んだ二とを伝え様と思っていても「ほっといてくれ」と言われることのほうが最近多いんです。注意しても、「私はこれでいい」と言われれば、教えようもありません。手遅れにならないように、気付いてもらいたいと思っています。
 好きな言葉は「恩」。親父も六代を継ぎますときに、鶴澤寛治とは三味線弾きにとっては大きな名前やと言っておりました。周囲の方々に推薦して頂き、継ごうかと考えていたところで入院。親父がまだおまえは早いと言っているのかなあと思っていたところ、思いがけず回復しましのたので、時期かなあと思って継がせていただきました。今こうして、私がありますのも、本当に沢山の方々から頂いた「恩」のお蔭やと感謝し、これからもr恩」を大切に精進させていただきたく思っております。



※「三味線を弾いてみますか」という寛治師匠の言葉で、塾生の小川恵子さんと、秋山建人は、人閥国宝の指導により三味線を弾かせて頂くことに…。直ぐには、鳴らないという三味線も指導がよいのか、見事に音が鳴っておりました。
 
                          
●鶴澤寛治の代々

初代 生没年不詳(江戸中〜後期)
通称  土橋寛治初代鶴澤友次次郎門弟。初名亀次郎
初代文蔵と並ぶ名手。後に花蝶軒・観西翁と称した。

二代  生没年不詳
初代 鶴澤寛治門弟。
寛政八年(1796)ごろ二代鶴澤寛治襲名。

三代  生没年不詳
初代鶴澤寛治門弟。
文吾、八兵衛を経て文化十三年・(1817)頃三代寛治襲名。

四代 生没年不詳(江戸後期〜明治初期)摂津難波村出身
三代鶴澤寛治門弟。初名富造。
二代目文吾を経て文政九年(1826)ごろ四代寛治襲名。
天保から嘉永にかけての大立者として名を馳せた。鬼寛
治と称されるほどの腕達者で、『関取千両幟』の櫓太鼓
曲弾きを始めたと伝えれる。後に寛翁と称す。

五代 嘉永二年(1849)〜明治十七年(1884)
泉州出身。本名大盛寛治郎。
三代寛治門弟寛三郎の養子。四代鶴澤伝吉門弟となり、
初代鶴澤寛治郎を名乗る。伝吉の死去により初代鶴澤清
六の預かり弟子となり、明治七年(1874)五代寛治襲名。

六代 明治二十年(1887)〜昭和四十九年(1974)
京都市出身。本名白井治三郎。五代竹澤団六門弟。
初代竹澤団治郎。
明治三十三年(1900)二代鶴澤寛治郎門弟となり、鶴澤
性になる。六代団六、三代寛治郎を経て、昭和三十一年
(1986)、道頓堀文楽座『絵本太閤記・尼ケ崎の段』で
六代寛治襲名。昭和十五年(1940)から三代津大夫の、
昭和二十五年(1950)から女婿四代津大夫の相三味線を
勤める。豪快な綾さぱきで迫力ある芸風。時代物を得意
としたが、世話物にも独特の味があったと評される。昭
和三十七年(1962)重要無形文化財保持者(人間国宝)
に認定。

七代 鶴沢寛治昭和三年九月二十七日京都市出身。
父は六代鶴澤寛治。
昭和十八年四月、父の三代鶴澤寛治郎(後の六代鶴澤寛
治)を師匠として、鶴澤寛子を名乗る。同年、十月四ツ
橋・文楽座「艶容女舞衣・酒屋」の琴にて初舞台。昭和
十九年鶴澤寛弘と改名。昭和三十'年、道頓堀・文楽
座にて八代竹澤団六を襲名。平成九年六月、重要無形文一
化財保持者(人間国宝)に認定。
平成十三年一月、七代鶴澤寛治襲名。





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