熟塾サロン

日  時:2002年6月11日(火) 午後7時〜午後9時
講 師:中国整体院 名取寿奈子さん (塾生)
     

塾生仲間からそれぞれの職場で学んだことを紹介してもらう久々の“熟塾サロン”当日は雷を伴った雨の中、塾生8名が会場に駆けつけた。
講師の名取さんは、病理検査の現場で長年働いているうちに、データー的には病気ではないのに、体の疲れを訴える多くの患者さんに触れるにつけ、運動不足やストレく杜会の中で西洋医学では解読できないものを、東洋医学で解決できるかもしれないと考え、50歳を機に病院からはなれ、東洋医学の門を叩く。2年間の修行後、10年前から一人で切り盛りする中国整体院で多くの患者さんの治療にあたってきた。
様々な人たちの体に触れながら感じたことなどを織り交ぜながらの講義の後、参加者はタオルー本でできる運動、足のツボの押し方などの実演で快い汗を流してリフレヅシュ。
現代人を悩ましている、西洋医学では解決できない症状“こり"とはなぜ起きるこか?筋肉はエネルギーを産出する時、ブドウ糖と血液を必要とし、緊張と緩和を繰り返すことによって、血行をよくする。ところが緊張が続き血行不良になるとエネルギーに変わるはずのブドウ糖が不完全燃焼を起こし、乳酸などの老廃物を作り神経を刺激し圧追する。これがこりの症状となるそうだ。
その解決策には、水の如く自然な人間の動きに体を流し、心も時代や現状に合わせて柔らかく形を変え、心を添わしていく、自然の流れに体と心を流していく。柳の枝が風にしなる様に、緩やかに穏やかに,年輸を重ねること、老いることさえも自然なことと心して、自然に受け入れていくことの大切さ。
タオルを首にかけて息を吸込み、息を吐きながら上や左に首をゆっくりと動かすなど、単純な動きでも、自然の流れにゆったりと身を任せるのは意外難しい。現代生活のリズム自体が、不自然な環境とリズムに切り刻まれているせいかもしれないなと気がつく。だからこそ、時々は人聞そのものが、いや動物そのものが持っているはずの治癒力や直感やらを呼び起こして、鈍ったそれらの感覚を揉み解さないと、体やこころの凝りはなかなかとれない。同じ姿勢や、凝り固まった価値観だけで、自分自身を縛り付けないように目頃から気をつけて、体や心を動かしてみることの大切さに気がついた。
それと、筋肉や神経は一部を構成しているのではなく、全体と一体となっているため、一部が痛むとその箇所に関わる部位に負担がかかったり、同じような症状となったりするので、首が痛いのなら背中の筋肉に負担がかかった姿勢ではないかなど、神経を圧迫し続けることで、臓器や器官にも影響を与えることがあるので、日頃の姿勢にも注意が必要とのこと。首が凝っているからと首だけをもむのではなく、肩など首と連なる部位も同様に揉みほぐさないと、凝りはなかなかとれない。
ストレス杜会、誰もが何らかのストレスを抱えながら生きていかなくてはならない現状だが、ストレスさえも一つの形として捉えて、したたかにそのストレスに心身を沿わせてみる。四季の移ろいと戦うのではなく、四季の移ろいを楽しみ、生活の彩りに変えてしまう日本人の生きる姿勢を何処かで見失ってしまったような気がする。水の如く流れる。そして、いつも静かな笑顔をたたえている。ストレスを招き入れない、老廃物を自らが招かない理想の生き方はと考えたとき、岩手の宮沢賢治館でかみしめた「雨ニモマケズ」の詩が浮かんだ。賢治の理想の生き方こそが、肩の凝らぬ水の如くに生きる自然な生き方ではないかと思い至った。ふとそう感じたときに、賢治の故郷に吹いていた快い風を感じることができた。その地で目にした緑の田園が連なるイーハートーブ。賢治の魂が今も木々の梢のそこここに散りばめられているかのような静かな時空が何故か愛しいかった。
「…みんなに誉められもせず、苦にもされぬ、そういう者に私はなりたい」。
賢治の理想の生き方は、私たちの手の中ではなく、燦然と天界で輝き続けている。




            
概略報告のページに戻る