赤穂浪士討入り300年記念・合同忘年会


 
日  時:2002年 12月 14日(土) 午後3時〜7時半


「討入りでござる!」 実況報告


 頃は元禄15年(1702年) 師走半ばの14目集まる
同志四十七、場所は本所松坂町、響くは一打ち二打ち三れ
の山鹿流の陣太鼓 
一ご存知、忠臣蔵。後世に“義士"とたたえられる赤穂の浪士47名が、あの吉良邸へ討ち入って、今宵はちょうど300年。これを偲んで浪花は本町2-2-5、鮮魚卸し料理の“みなと水産"で、合同大忘年会を開催しました。(参加グループは別掲)。集まった数は実に90余名、講演にはじまり、落語、講談まで演じられ、多分この日大阪で最大の賑わいが出現した半日借りきりの大盛況ぶりでした。
 エ、赤穂の義士と大阪はカンケイない? 一一そんなことはありません!。あの近松門左衛門がこの話をもとに「碁盤太平記」を書き上げ、最初に人形浄瑠璃が演じられたのが大阪の竹本座(1706年)です。さらに竹田出雲書くところの、ご存知の歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」の初演(1748年) もこの竹本座。いわば、赤穂浪士の伝承を世に広めたのがここ大阪なんですから。

■ 講演 「いま解き明かす忠臣蔵の謎」  伊ヶ崎淑彦氏 (郷土史家)
 まずは伊ヶ崎先生の講演で、幕が明いた。一聞くこと、みな初めての珍しいことばかり。
まず、時代背景から。当時、いわゆる元禄時代というのは今華やかな文化の開花が伝えられているが、実は全地球規模での寒冷期にあたり、江戸は現在の札幌あたりと似た気侯であったという。ために、農作物の出来は悪く、中の物価はひどいインフレ状態で、庶民の暮らしも苦しく、幕府への不満も募っていたのだそうな。そして、播州(兵庫県西南部) あたりの物価感覚とはおよそ異なり、浅野内匠頭へ石高五万石の国元で用意した饗応役費用400両にも無理があった。

 さらに、具体的には、旧暦12月15目は、現在の1月16日ころに相当し、その4日前に降雪があったが、当日に雪は降っていないこと。
江戸城の“松の廊下"は公家以上の高家専用で、武家は通れないから、現場は違うトコロのはず。じつは大石内蔵助良雄は、真に女好きの遊び好きであった、とか。「男でござ一る」の天野屋利兵衛や、槍の名人の俵星玄蛮は架空の人物。討ち入りに際してはおっていたとされる黒地に白くジグザグ棋様(山型) を縁取った羽織や名前を書いた半襟なんぞは後の歌舞皮上演に始まること。山鹿流とされる陣太鼓や笛を鳴らすのは、隠密裏におこなう夜襲にはもっての外ともおしゃる等々史実虚実の裏話の数々。さらに、仇役の吉良上野介(享年62歳)は、1200石の領地ながら、三州塩の塩田を開発したり、用水や排水の築造などで領民の生活を向上させていて名君の誉れ高かったとのこと。

 記憶に留めたいのは、城明け渡し前に金を持って逃げたとされる大野九郎兵衛(650石取りの勘定役) の話。いま福島県板谷峠に彼の墓があるという。この峠こそは、もし吉良上野介が江戸を逃げて、息子の領地・上杉家領内(山形県)へ向かおうとする時、必ず通る道で、ここで一人待ち伏せしていたのだそうな。どっちにしても、上野介は生きてはかなわなかったようだ。

 もう一つ。翌年の元禄16年2月4目(現在の3月10日ころ)、 義士たち全員の切腹の後、その子どもたちにも罪は及び、19名が伊豆七島へ遠島となり、このうち15歳未満の者は15歳を待って流され、他に8名が僧籍に入ったという…南無。
一伊ヶ崎先生は、しきりに「歴史家は、なんでも裏読み、ハスカイに見て、ケチをつけるもの」さらに「講談師を前にして歴史を語るのはとっても恥ずかしい」と、初めての経験に苦笑い。


■ 落語 「蔵丁稚 (くらでっち)」  上方落語家 林家花丸氏
 次いで、今をときめく上方落語界きっての若手のホープ、林家花丸さんの
賑々しい登場です。
いきなり、「あの不二屋のベコちゃんがお風呂に入ってたら、上の窓からポコちゃんが
覗いているのを見つけました」さて、ペコちゃんはなんて言ったでしょ〜?」
「・・ミルキ〜!!」と、マクラに瞬問小話を連発に次ぐ連発。グッと私たちを引き付けて
ておいて、ちょっと珍しい今日にふさわしい演目「蔵丁稚」が始まりました。
古典落語ですぞ。
 ー まず、丁稚小僧の、使いに行った時間がかかりすぎるのを、いぶかしんだ主人が
間い詰める。と、好きがこうじて芝居を見ていたことがばれて、丁稚さん、とうとう折濫に
土蔵に押し込められてしまう。一こわいやら、淋しいやら、さらに腹が空くわでこの丁稚さん、
気を紛らわせるために、観てきたたばかりの「仮名手本忠臣蔵」を想い返しながらつい熱中、
とうとう終いには蔵の中で一人芝居を演じはじめる。
四段目の「塩冶(えんや)判官切腹の場」、内蔵助にあたる大星由良之介が切腹の場に
駆けつける、あの「遅かりし、由良の介」の名場面になると、花丸さんも絶好調、
古典落語の真骨頂を発揮させ、もう本当にこっちも実際に芝居を観ているような気分に。
偶々、蔵の外から丁稚さんの振るまいをみて、これは自殺しかけてると思いこんだ番頭さんの知らせで、お店中が大騒ぎになるなかでオチとなるが一こうして噺家の間近かで、同じ眼の高さで聞く落語こそ、本来の姿かも、とあらためて思わせた花丸さんの熱演ぶりでした、


■ 講談 「松浦公と義士の討入り」  旭堂小南陵氏
 21世紀の講談師のいでたちは、ナント、金糸を織込んで艶やかに光るマオカラー・スーツ。二人のお弟子を従えてのご登場は、サスガ貫禄十分。すでに“説得カ"が歩を進めている図です。
 会の冒頭に、伊ヶ崎先生の講演で、忠臣蔵の通説のことごとくが否定されているので、やりにくいヤリニクイとおっしゃりながらも、そこはそれ“歩く説得カ"ですから、自信満々扇子が高鳴る。本日の真打ちの出し物は、ちょっと珍しい、討入り当夜のご近所の屋敷の話。
 
 一そう、本所一つ目にお住まいの松平壱岐守のお屋敷から始まる。九州は肥前平戸のご城主でト賀(ぼくが)公とも呼ばれたこ二のかた。
火の気が大嫌いで夜はいっさい火を使われない気遣い。寒い冬の夜も、お若い女性に挟まれて寝るくらいだったとか(スゴイね)。だから、あの夜、ドンド〜ンドロドロロという一打ち二打ち三流れの山鹿流の陣太鼓の音に、ただちに起き上がる。
 このお屋敷、ちょうど吉良邸から上野介の一子の養子先である上杉家へ行く道筋に当るんだそうな。通報する吉良の家の者があるやも知れぬと、屋敷内から数多の高張り提灯を出させ、家内総出でこれを見張った。
上杉は大藩、これが出動すると、さすがの赤穂の浪土たちも大願成就はかなわない。
そこへまさに、大ドブを伝って上杉方へ注進におよぼうとする、左右田金兵衛という吉良家の侍を捕まえた(手に汗にぎったぞ)。
おかげで、一件が上杉側に知らされることもなかった、(ヨカッタ、ヨカッタ)という顛末一

 もう、手は舞い、扇子は鳴り響き、目の前でコトがはこんでいるような臨場感・・イヤア〜面白かったの、なんのって、講談なるものナマで初めて見ましたが、もうこんなに面白い楽しいものとは知りませんでしたヨ。会場の皆さんも、まるであの日、あの場所のちかくに自分も居たような気分になったと口々におっしゃる。さすがは講談師の「見て来たような名調子」と二度感服させられました(抽手)。


■ 大盤振る舞い“大石内蔵助登場''の大宴会

日も落ちる頃、いよいよ酒肴が打ち並べられ大宴会が始まりました。この日用意された料理は、鯖棒(さばぼう)、黒鉄(くろがね)、あんこうの天ぶら、タラの煮付け、関東炊きにくさぐさの刺し身、握り寿司等など、さす海鮮卸しのお店、魚が様々に趣向をこらして、どれもこれも見るからに「食べて〜タベテ〜」と美味ぶりを誘ってきます。更に、赤穂浪士に因んで、討入り蕎麦に、お店が用意した特別メニューは最年長の堀部弥兵衛金丸が討入り前に義士をもてなした料理、勝栗に、よろ昆布に、敵を鳥に行くということで焼鳥も並び、デザートには事務局が播州赤穂の名物、“塩味鰻頭"を持ち込んで、更に義土の郷愁を誘います。





みなさん、お酒もだいぶ効いてきたころ、いよいよ赤穂の四十七義士全員の名前を袈裟たすきにしるした、参加者の中から選ばれた47名が、順に各自の義士を紹介。
不破数右衛門にはじまり、聞くも涙、語るもナミダの故事来歴、義士の一人ひとりに興味深い物語(ストーリー)があるんですねえ。

で、盛り上がる中、ついに真打ち大石内蔵助良雄があの夜のフル正装(?)で登場。二つ巴の紋所を兜に配し、山形文様の陣羽織に篭手脚半(こてきゃはん)、采配を手にした威丈夫ぶり。
紛したのは天王寺歴史散策ボランティアの松村基さん。勝ち抜きジャンケンで勝利して、貸し衣装代金5万円ナリのこのイデタチとなりました。イヤア、これがよく似合ってまして、もちろん本人も内蔵助になりきって、遂には謡曲までうたいだす徹底ぶり。

歓声、歓声また歓声。笑い過ぎて涙まで出てきて、汗とお酒で朦朧と目もかすむ彼方を平成の新四十七士が練り歩く中、宴は最高潮を迎えました。
 一かくて浪花の2002年の師走の宵が更けていくのでした。



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    揚げる間十次郎


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