続編

杉山栄三 

 僕は、昭和3年生まれで今年8月、満77歳になった。戦前の古きよき大阪の日本橋筋、浪速区東部、難波付近の思い出があるが、小学3年、昭和12年7月7日、盧溝橋事件で日中戦争になり、航空工業学校時代は大東亜戦争となった。

  昭和 19年7月15日、東條内閣総辞職。府立工業学校学徒動員令で堺のクボタでブルドーザーのエンジン製造に従事。昭和20年3月の大空襲で家や町が焼かれ、国鉄、現在のJR八尾駅近く相生町に住んだ。学校も空襲で焼かれ、終戦の翌年、深江橋近くの仮校舎で卒業式。混乱と食料・物不足の社会に出た。

  20代は、3回会社が倒産。失業となったが、30代で従業員2人の会社に入った。新日鉄、住金、神戸製鋼の圧延用高圧バルブ製造で従業員も増え、結婚新居を東大阪市にし、一女誕生、幸せな生活を送るようになった。

  平成10年、熟塾に入熟。活動を通じて社会勉強を楽しんでいる。東芝、日本ルツボの仕事もあり、71歳まで働いた。妻に先立たれて寂しいが明るく生きたいと願う。

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