語り継ぐ船場商法
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三百万の株券とトレードされた婿養子 本日のテーマは船場商法ということですが、私はもともと船場の生まれではありません。 出雲で15代続いた地主のせがれで、本日の会場であります綿業会館と同い年で、昭和6年生まれ。丁度今年で70歳になります。船場に出てきて40年になりますが、それまではずっと大学まで松江で過ごしました。旧制の松江高等学校が新制大学になった島根大学の二期生で、卒業後、東洋レーヨン、現在の東レに入杜致しました。一生東レで繊維の仕事をしようと思っていたわけですが、人生はどんな事が起こるか解らないものです。 大阪の営業に配属され、西宮球場の裏側、高松町の独身寮におりましたが、ある晩、島根の私の父親から電話がありました。「亮介、おまえ、船場の老舗から養子の口があるが…」という内容でした。私は5人兄弟で、兄、私、弟、下に妹.とが二人で、特に2番目というのは、ガキ大将と相場が決まっておりまして、とても三杯目にはそっと出しという養子には相応しくないと当然断りました。ふだんあっさりとした親父が、奇妙にしつこい。よく考えろと、何遍も電話をよこすので、よくよく話を聞いてみると実は話には裏がありました。 どういう事かといいますと、私の父は『島根新聞』というローカル紙の杜長をしておりまして、その新聞杜の増資先として島根県出身の経済人を頼りに、東京、大阪、広島、九州に出ていったわけです。私は出雲ですが、和田哲の創業者が同じ島根ですが石見の出身で、幼い時に養子にもらわれて大阪に出てきて、船場小学校を出て丁稚奉公をして寝装晶の問屋をしているという、島根県という縁をたどって大阪の和田哲をたずねたわけです。両家とも島根では古い方の家系ですから、よく来たということで、南地大和屋に父が連れていかれました。ご馳走になったのはいいのですが、その時に和田哲夫という創業者が「もしあなたが島根県から養子を探してくれたら、六万株をいただきましょう。出来るだけ古い家の息子の方がよいのですが」という提案をしました。 私の父がいくら新聞杜の社長を務め情報通であっても、すぐに養子が見つかるという訳にはいかない。そこで、父親が「考えてみましたら、一人だけ心当たりがあり'ます。私の息子に一人余っているやつがおります。それでよけれぱ、さしあげましょう」と即答してしまいました。その息子という.が、実は私の事でして、当の当人の全く知らないところで話が進んでいきました。「どこにお勤めですか。」「東洋レーヨンです。」「それは、結構。うちのメインバンクも三井銀行、東洋レーヨンも三井系、おまけに繊維関係とあれぱ、願ってもない。あなたの家の息子さんだったら、間違いない。」「では、息子をさしあげましょう。」「では、6万株いただきましょう」株は50円ですから、6万株で、300万円。私の知らないうちに、トレードの話が決まっていたのです。 ですから、親父はたいへんひつこく、何遍も何遍も養子にいかないと電話を入れ、手を変え、品を変えて、説得を試みましたが、私も私自身の性格も解っておりましたから、断り通した。そうしたら、そこまで言っておまえがいやだというのなら、六万株諦めたと父親がついに言い出しましたが、そのかわり、おまえが和田哲に行って断ってこいと言うのです。全くひどい話です。私自身が全く知らないのに、自分が結んだ契約の破棄を当人にやらせようというのですから、明治の人間はえてしてそういうことがあり、理不尽だとは思いましたが、昭和32年の話ですから、島根県から大阪に出てくるのも大変なので、日曜日に一人で宝塚の和田の本宅に断りに行きました。 右上へ → |
まぁ上りなはれ、食ぺなはれ、飲みなはれ 玄関を開けると、奥からドヤドヤと創業者夫妻と二代目夫妻が走り出てきて、「まあ、上がれ。」と声をかける。断るつもりで来たのですから、「ここで失礼します。」と言うと、「そんなことを言わず。もうすぐ昼時だから、あがんなはれ。」と言われ、私は別に昼時を狙ったわけではなく、訪ねた時がたまたま昼時だったのですが、阿吽の呼吸は流石船場商人で、上手いものです。折角、上がれというだから、何かでるのだと思いました。当時は、現代の様に飽食の時代ではありません。何かあるだろうと、襖をあけたら、仰天した。大きなテーブルに山海の珍味が並んでいるし、行きがけの駄賃という諺もあるので、ご馳走に箸をつけたのが間違いの元であります。 食欲が旺盛なほうですし、普段食べたことがないようなご馳走が並んでいる訳で、船場商人の呼吸、問合いが実に上手い。食事に手をつけると、「まあ。一杯」と酒をすすめられるままに呑んでいると、銚子の4,5本も空けていたという訳です。人をもてなすというのが非常に上手い。今から考えたら“罠"だったなあという気も致しますが、酒を呑んで気分よくなり、祖父母夫妻、父母夫妻の集中攻撃を受けながら、顔を眺めていると皆丹精な顔立ちでした。断るつもりでしたから、今の家内の写真を見たことがなかった。つまり、カタログも現物も見たことがなかったのです。家内はそのとき、東京の日本女子大に行っておりましたが、家系的にはこの四人の子孫ならそこそこの美人ではないかと想像しはじめました。『待てよ。サラリーマンで一生終わるのもいいけれど、店に娘をつけてもらうのもまんざら悪い話でもないなあ。』と思い始めました。 人間の心理は、動くものなのですね。祖父が私の顔色を見ていて、これはだいぶ心が動いたなあと読みとって「よろしおますやろ。この話。」と切り出され、こちらも酒を呑んでいるものですから「それだったら、考えましょうかねえ。」と言うと、船場商人の素早さは見事なもので、すぐその場で島根の父親に電話をかけた。私はまだ0Kとは言ってないのですが、私の父親にrあなたの息子さんが承知しましたよ。」と電話をかけた。 否応無しに、婚儀は成立してしまったわけです。こんな結婚の仕方は、船場で最後だと思いますね。戦前は、こういうことはざらであります。戦前、船場で本人どうしが縁談を決めるということはほとんどない。その時ののれんを守っている人、和田哲でしたら、創業者の祖父が、自分の息子、孫の縁談の決定権を握っているわけです。それに反して嫌だと言ったら、家を出なければならない…これが船場でした。私の場合は、戦後も十二、三年も経っているわけです。それで、女房の顔も見ないで、見合いもしないで、決めたというのは、ある学者でいわせるとかなり珍しいケースだそうです。その後、女房が夏休みの時に帰った時に、東レの隣りにあった「新大阪ホテル」で、昼休みで家内の顔を初めて見て、実際の話「しもた」と思いました。私の親戚まわりの司洋子という女優がいるのですが、司洋子ほどではないがそこそこの美人ではないかと期待感があったものですから、ごくごく普通の容姿であったために、落胆の度合いが強かったわけです。そして、家内にどうして俺のことを知ったのかとたずねると、父親がわざわざ東京の寮までやってきて、私のスナップ写真をポンと前にだして「これに決めたよ。」で終わりであります。その時、どんな気持ちだったかとたずねると、何の感動もなかったと言いました。この人かと思っただけだったそうです。 何故、私がここでこのことを申し上げたいかといいますと、船場というのは、今と違って、かっては自分の息子よりものれんが大事、のれんの為には平気で息子を廃嫡して、娘に養子をとる。のれんを守ることができる素質をもった男を選んで養子をとりました。創業者にとっては、企業の方がはるかに大事。息子や娘の人権などは、どうでもいい。潰さない、永続することが船場商人の願いであり、その為には手段が選びません。 |
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