語り継ぐ船場商法

講師:和田哲株式会社 会長   和田 亮介 氏
日時:2001年4月7日(土) 14:30〜16:30
会場:綿業会館

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釣った婿養子に不要の三条件

 私も無条件降服で養子に入るのは嫌ですから、養子にはいきますが、「暫く東レはやめませんよ」と言うと、創業者の和田哲夫は、「東レには滅多に入れないので、部長とか役員になってかえってきたらよろしい」とOK。
 第二に、和田家は人に酒を注ぐのは上手いのですが、下戸で酒を飲まない血筋でしたが、私の家系は父や兄弟とも酒はたいへん強いので「養子に行っても酒は飲みますよ」というと、「あんたがいくら飲んでも潰れるような和田哲やおまへん、どんどん飲みなはれ、酒飲まんと商売はできまへん」と丸のみでした。
 三つ目、私の父が山陰尺八道場を開いていたので、中学3年生から尺八をふいていました。虚無僧の修業の一つとして門付げもしていたので、「私は尺八を吹きますよ。」と言うと、「尺八の音ほど日本人の心に触れる音はない、どんどん吹きなはれ。」と言う。この人は、話がわかるなあと思った。

半年後、「ちょっとおいなはれ」と日曜日に宝塚の本宅に呼ばれ、「そこに座りなはれ。もうぼちぼち、東レやめてんか。」と言われました。結婚する前、取締役になってから戻れと言ったのに、「あと二十年位はかかりますよ。」と言うと、
「あんたは、僕がいくつやと思ってるんや。」と言うのです。
「ボクと四十九違うので、もう八十前でしょう。」と言うと、
「ほれみなはれ、いつ死んでもおかしない歳や。あんたを養子にもらったのは、のれんを継がせるために自分が鍛えようと思ってもらったんやから、いづ自分が死ぬかわかれへんのに、二十年も東レにいてもらっては困る。」と言うのです。
「自分の息子は少し体が弱かってしごきには耐えられへんかったが、あんたは少し頭は弱いが、体は丈夫や、そやから何とか鍛えて、のれんを守らせようと思っているのに、いつまでも東レに居てもらっては困る。」と言うのです。

 更に、「最近、あんた、毎晩酒を飲んで帰ってきなはるそうやなあ。酒はあきまへんで、やめてもらいまひょ。」と親父夫婦と同屠していたので、日常の動向は筒抜けでした。「どんどん飲みなはれとおっしゃったのに、やめてもらいまひょというんは、どういうことですか。」と言うと、「酒は百薬の長というけど、ちょびっと飲むと薬やけど、あんたみたいにガブガブ飲むと、毒になる。酒には、酒毒というものがあるので、やめてもらわなあかん。いくら飲んでも潰れる和田哲ヤないけど、ただでさえ頭の悪いあんたが、酒毒にやられたらどないしますんや。船場というところは、箸のこけた音、針の落ちた音さえ聞き分ける研ぎ澄まされた神経を持たんとあかんのに、酒毒で頭がやられれたらどないしますねん。」
 それに付け加えて、「日曜日になると、あんた、尺八をブウブウふいているそうやなあ。」「演奏会もあるので、日曜日だけでも練習しなければ一・・」と言うと「尺八はあきまへん。」「どうしてですか。心に響く音やとおしゃったじゃないですか。」と反論すると、「言うたけど、あれは門付けをして歩く、乞食がふくものや。船場の商人は本来非常に品の良い'ものやから、乞食がふくような尺八をふいたはったら、世間様に笑われます。」と言うのです。

 結婚前には条件を丸呑みして、結婚して半年経ち、女房のお腹の中には子供もいる時になって、すべてひっくり返された訳です。「嘘も方便。取ったら、こっちのもんや」とも言いました。これが、船場商人の一つのしたたかさなのです。東レを直ぐに辞めろと言われても、当時は私は内地の人絹糸を扱っていました。一寸伸ばしにしていて、なかなか辞めないものですから、和田哲夫はまったく取引のない東レに、ステッキをついて、中折れの帽子を被って、後に杜長になった森常務の所に「うちの孫、返しておくなはれ」とじか談判に行きました。流石に森専務もびっくりした。そんな奴は何処にいるのかということになり、居たたまれなくなって辞めました。結婚したのが、昭和33年で、辞めたのが36年。それからが、私の苦難の始まりでした。


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毎日曜日に地獄谷へ、祖父直伝扇子商法講座

 東レという大企業から、船場の老舗に入ったのですから、これは別世界です。東レの何億の商売から、何円、何銭の商売へと、扱っている単位が違います。それも驚きましたが、なるほど祖父は言うように、「東レの商売はあれは商売やない。東レは販売で、こっちは商いや。手形がおちて初めて商売になりすんや。東レはただ売るだけやおまへんか。そやから、あんたに商いを教えまひょ。」と言うのです。
 しかし、教え方が並みではない。祖父が会杜に出てくると、必ず私は祖父の横にいさされ、東洋紡や銀行等いろんなお客様とのやりとりを見せる。お客様がお帰りになってから、「亮介。今の話、どういう風に聞いたか」と質間されるのに、答えると「それは違いま。人の話の裏を読みなはれ。」私にとっては大きな収穫でした。
 それはいいのですが、日曜日になると、宝塚から、豊中の岡町の私の家に電話がかかる。「ちょっときなはれ。ご高説が聞きたい」と毎日曜日の電話です。1時間掛かって、宝塚の紅葉谷、私はそこを地獄谷と称しておりましたが、その急勾配の坂道を登って行って、短い時で3時間、長い時は、一目中、お互いに目を見ながら祖父と一対一で話すわけです。座談の上手い人でした。どこそこがどうして、儲けたかという話よりも、どこそこがどうして潰れたかいう話の合間に、自分が大和屋で芸者にもてた話とか艶話を織り込み、話題が尽きない、面白い、興味を持って聞いていました。
 いくら経験を積んだ八十才の創業者でも話のネタは一年経てば尽きてしまい、向じ話を繰り返して百回聞くと背中が痛くなりますよ。祖父はそれでも「亮介はん、あんた聞いてなはるか。」と言うので「聞いていますよ。」と答えると「いや、あんたは聞いてない。さっきからいろんな話をしているのに、一つも相槌をうたんではないか。」と言うのです。「はあ一」とか「へえ一」とかは、初めて聞いた話には感心して打てますが、百回聞いた話になかなか相槌を打てません。「相槌を打ってもらわへなんだら、調子がでえへん。」と言うのです。民謡の合いの手のように、相槌を打つのは大変です。

 何度目かに、祖父は「商人.はなあ。損して得取らなあきまへん。金儲けばっかり考えたら、長続きしまへんで。」これも何遍も聞いた話でしたが、そのとき私は「そのトクは、徳川さんの徳と違いますか」と言うと、実に嬉しそうな顔をして「ようやく、あんたも一人前になりなはったなあ。その通りや。損をして、相手はんのもってはる“徳"を戴く。それが、損して徳取れということや。そこまで深聞きしはったら、一人前や。」と言うのです。『そうか! 話というのは、繰り返し繰り返し聞いているうちに、聞き方がちがってくること.に気がつきました。』それから以後は、同じ事を聞いても別の聞き方は出来ないかというようになる。そう思うと、退屈はしない。もっと別の解釈はできないかなと考えるようになりました。
 
 祖父は昭和45年に89才の現役の杜長で亡くなり、最後の9年間いろんな話を聞いた訳です。それをある業界紙に連載をしまとめたのが「扇子商法」という本であります。その本の題名を付けるときに、どうしようかと思ったのですが、私と話をしている時に、祖父はいつも扇子を閉じたり、開いたりしながら、「商いというのは、この扇子と同じや。団扇(うちわ)の様に広げっぱなしではあきまへん。扇子というのは、熱い時には広げて涼をとる。終わったらたたむ。商いも同じや。良い時には広げ、悪くなったら縮めたらよろしい。縮めることを知らへんから、あきまへんのや。但し、広げるよりも、縮めるほうが難しおっせ。上手く閉じようと思ったら、全部閉じないで、二、三枚残して使う。そうすると、扇子というのはたたみやすい」というのです。扇子を全部広げてしまったので、バブルの崩壊後、苦労したのが広げすぎたということなのです。未だに尾を引いているわけです。

 昭和51年に書いた“扇子商法"が、天声人語の荒垣秀雄さんの目に止まった。書評を書いていただいたのが、阪大の名誉教授の宮本又次先生です。意外にも、全国でその本が今でも売れています。それから、5,6冊書きましたが、未だに“扇子商法"に勝る本は書けない。一番最初に良いネタを使ってしまったということもありますが、今では中央文庫になって、六百円位で売っておりますので、もしお暇な時でも読んでいただけば、最後の船場商人という称号を奉られた和田哲夫は、魅カある男でございましたね。たとえば、商売を永続させていく為には、人気がなけれぱならん、人気とは、自分の気ではない。.他人の気、他人様の気がこっちに向くような商いをしないと、永続しないと常々申しておりました。

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