語り継ぐ船場商法
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お天道さんが見てござるの船場商法の神髄 天道と一番上に書いておりますが、今殆ど口にすることはありませんが、船場商人は「お天道さん」という事を言っておりました。祖父も「お天道さんが見てはるで」は口ぐせでした。お天道さまとは、神、仏、先祖で、そのお天道様のお蔭で商いができる。 ですから、天道の下に天職とあります。今は天職という言葉は死語になりましたが、昔はどんな商人や職人でも皆誇りを持っていました。それは、こういう仕事ができるのは、神仏の加護、祖先のお蔭だと、手の届かない上の方から見られているという。 その下に書きました畏れがあります。「得意先や客先は騙せても、お天道さんは騙せない、そのうちに天罰がおちまっせ」という考え方がありました。 そして、感謝というキーワードがあります。祖父から耳にタコができるほど聞いた言葉です。「亮介はん、仕入先がなかったら、物が仕入られまへんやろ。買ってくれはる人がいてはれへんかったら、物が売れまへんで。一人では出来まへん。そやから、有り難いと思わなあきまへんなあ。そやから、仕入先をたたいたり、売り先に無理押ししたら、暖簾に関わります」と、ひたすら感謝です。ところが、最近は感謝という言葉があまり使われなくなりました。皆自分の力という騎りが蔓延しています。 昔は「利は元にあり」と言って、利益の源泉は、売り先ではなく、仕入先にあると言っておりました。仕入先のお蔭で、商いができる。そのお蔭で利益が出る。仕入先とどう密接に取り組むかを祖父は大切にして、仕入先は東洋紡一本、後はどこからも買わない。そして、東洋紡さんのお蔭で商売ができると感謝しておりました。たまに東洋紡さんに挨拶にいくときは、この綿業会館の下の散髪屋さんで入念に散髪して、深剃りする祖父に「何故、そんなに深剃りをするのですか」と聞くと。「深剃りをすると、顔の血色がよく見える。」と言って、若々しそうな格好をして東洋紡の杜長や専務の所に挨拶に行きました。入口まではステッキをついていても、玄関入った途端にステッキを常務に持たせてスタスタと歩く格好まで元気よく見せて、お蔭様でと挨拶をするので、東洋紡の人達は「和田さんは元気やなあ。八十なんぼ過ぎたんや。」と声があがり、和田さんは元気やから、まだ大丈夫やと取引先に安心してもらう演技力も持っていました。 次に知足安分。これが永続の為には、絶対に必要。足るを知って、分に安んずる。先ほど申し上げた自分の器に八割の水が入れぱ、それを以って足りるという認識が必要なのです。安定している時に、器に一杯入れても水はこぼれませんが、環境が変わって動いたときに、二分残しておけぱ、水はこぼれることはないという考え方がかってはありました。今は満杯になるまで入れろという風潮ですが、永続の為には二分のマイナスが必要なのです。二分残して満足していたら、成長しないのではないかという考え方もありますが、かっての船場商人の頭の中には、成長するノウハウを持っていた。器を大きくすれば、このコップを五割増のコップにしたら、五割増の水が入る。では、器をどうして大きくするのか。船場商人が取った方法は、人を作るということでした。商いはあくまでも人がする。これはIT化の現在でも変わっていません。 丁稚の教科書カルタは商いの諺集 船場商家の構成図がありますが、これは昭和2年前迄は大体このような構成図だったのです。昭和2年は、世界恐慌で鎧戸を閉めるという風潮の中、船場商家が慌てて打った手が、個人商店を株式会社にすることでした。目本経済の大きな転換期でした。株式会社に変換した時期から、船場の人口が激減しました。主人の傍の御寮人や家族が、芦屋や帝塚山周辺に去っていきました。それまでは、番頭さんは通いの人もいましたが、一つ屋根の下に、主人、御寮人、家族、番頭、手代、丁稚が一緒に生活をしていました。一つ釜の飯を食う時代がありました。 祖父は明治15年生まれで、松下幸之助さんが一回り下の午年で明治27年産まれでしたが、その頃の日本の教育制度というのは、小学校4年生までが義務教育で、後2年の高等科があった。やがてそれが、6年生になるわけですが、祖父は高等科を卒業して丁稚に入っています。松下さんは4年生前に退学して、丁稚として奉公されました。小学校4年生前後と言うと、十歳前後ですよ。当時は、十歳前後の人達が杜会人になっていたのです。今大学を出たら、二十二、三だとすると、十年も早く杜会に出いているわけです。これが、後で違いを生むことになります。 右上へ → |
丁稚の仕事とは何かというと、雑用一切で、算盤は勿論持たせてもらえない。走り遣い、掃除などのあらゆる雑用が仕事でした。丁稚奉公の時に何を学ぶか、はや飯、はや糞、はや使いと、スピード感覚を身につけました。スピードが遅いのは、脱落していきます。 店によって違いますが、寝る前1時間程、番頭さんや手代の人達が先生になって読み、書き、算盤を丁稚に教えました。その教科書は、いろはカルタ類を教材にして、「犬もあるかへんかったら、棒にあたりまへんで。」商人は外へ出ないと商売にはならない等と教えていたようです。百人一首とは異なり、カルタというのは詠み人知らずの諺です。 資料にお配りした船場カルタは、私が祖父に聞いた諺とか、船場に伝わっている言葉を集めたカルタであります。 船場カルタ い 生命より、ノレン大切 ろ 論より商売 は 儚い生命 中小企業 に 二代続かん緊張欠くな 人気大切 芝居も同じ ほ 奉公・体面.・分限が憲法. へ 勉強小便自分が始末 と 獲らぬ狸は化けの皮、獲った狸の皮算用 ち 塵もつもれぱ在庫となる り 利はもとにあり ぬ 濡れ手でバブル る ルンペンに破産なし わ 若い時、苦労するほど身の薬 か 学校頭で商売出来ん よ 欲の熊鷹股裂ける た 足りぬ足らぬは工夫が足りぬ れ 礼儀と挨拶 仕事のいろは そ 損して徳とれ 祖父の陰徳孫に行く つ 付き合うのやったら上の人 継ぎとうて、継げぬがさだめのれんかな ね 熱と辛抱人つくる な 何ポの儲けより何ポの損 ら 楽は苦の種 苦は楽の種 む 無理押・返品天に唾 う 売手よろこび買手よろこぶ の のれんと骨董古いが値打ち お お天道様が見てござる 大阪立身負けるが勝ち く 愚痴とぼやき金にならん や やる気次第で局面交わる ま マネージメン徳 け ケチと始末は大ちがい ふ 冬の蛙は寒蛙 分別分際命を救う こ ころぱぬ先の智恵 え 会得・体得問屋の教育 て 出掛けの挨拶、拶帰りの報告 あ 歩きながらも考える 脚で考え手で思う さ 酒をのまずに阿呆になれ き 銀行さん尊んで侍まず ゆ 油断天敵 め 目習い手ならい耳ならい み 身の程を知って商う腹八分 し 人材よりも人の財 商人に定禄はなし万事実力 え 縁は偉なもの ひ ひとのせんことするが肝心 も モノ売る前に自分売る せ 節約は、モノを生かして使うこと す 「すまん」ですまぬが支払日 ん 運・鈍・根 |
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