なにわの学問所 ・ 懐徳堂・適塾に学ぶ
講師:大阪大学名誉教授 梅渓 昇 氏
日時:2001年11月10日(土)午後1〜5時
コース:少名彦神社(梅渓名誉教授講義)正式参拝 → 旧小西邸見学(重要文化財・明治末期の商家)
→大阪美術倶楽部(旧鴻池本宅座敷 扇鴻ノ間) → 適塾 (重要文化財) → 懐徳堂記念碑
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D鴻池新田の開発
両替商と大名貸しとで鴻池屋の資本は相当なものになり、当時町人請負新田が開発され鴻池屋も大和川切換えにともない200町歩余りの鴻池新田(宝永4年:1707施工)を開発する。 E明治以後と鴻池
明治4年、廃藩置県が断行され町人より大名への貸付金は帳消しされ、当時76藩と取引のあった鴻池の損失は莫大であった。明治10年、第13国立銀行設立。明治30年個人経営の鴻池銀行を興し第13国立銀行の営業を継承。昭和8年、鴻池銀行、山口銀行、三十四銀行が合弁して三和銀行を設立。 終戦後の農地改革により鴻池新田他多数の田畑を失う。明治以後、三井、住友等は人材に恵まれ官軍側の新政府について新政府のご用達をする等事業を拡大していくが、鴻池は人材に恵まれず、近代的資本家への転化が計れず旧態依然たる利貸資本が時勢に順応し得ず、次第に衰退に向った姿は惜しみてもあまりあるが、しかも幾多の江戸時代の巨商、旧家が維新後相次いで消失したのに比すれば、今なお着実に家柄を守っていられる所は慶賀すべきである。 (資料:吉川弘文館、宮本又次著「鴻池善右衛門」より) 概略:適塾は、蘭学者緒方洪庵(1810〜1863)が、天保9年(1838)から文久2年(1862)に幕府の奥医師として江戸に迎えられるまでの24年間にわたって開いた学塾である。洪庵は、日本全土から集まった門人に蘭学・医学を教え、幕末から明治にかけての日本の近代化に貢献した、橋本左内、大村益次郎、福澤諭吉、長與専斎、高松凌雲、佐野常民、大鳥圭介ら多くの人材を育てた。 適塾は、昭和15年大阪府の史跡、昭和16年国の史跡、昭和39年に重要文化財に指定され、その後文化庁によって解体修復工事(昭和51年〜昭和55年)が行われ、洪庵居住当時の姿に復原した。 この適塾は、我が国の蘭学発展の拠点となった歴史を伝えるばかりか、当時の大阪北浜の町家の姿を示す貴重な建物である。 緒方洪庵は、幕末における洋学研究の第一人者として仰がれた。彼は多くの蘭書を翻訳し著書を残した。「扶氏経験遺訓」30巻はベルリン大学教授フーフェランドの内科書を翻訳したもので、日本内科学の発展に大きな影響を与えた。この巻末の「医戒の大要」を洪庵は12ヵ条の格調の高い文章に抄訳して「扶氏医戒之略」とした。第1条には「人の為に生活して己の為に生活せざるを医業の本体とす」とあり、適塾の指導要項とされ、現在でも立派な医の倫理書といわれている。また、「病学通論」はわが国で初めてできた病理学の総論で、当時広く読まれた名著である。未知の学問を体系化するにいたった苦心と功績は極めて大きい。 適塾における教育の中心は蘭書の会読であったが、この予習のために塾生が使用した辞書がヅーフ辞書(長崎出島のオランダ商館長ヅーフがハルマの蘭仏辞書に拠って作成した蘭和辞書)であり、当時は極めて貴重で適塾にも一部しかなく塾生はヅーフ部屋と呼ばれる部屋につめかけ奪い合って使用した。塾生の勉強は他塾とは比較しえぬほどはげしいものがあり、福澤諭吉は自ら述懐して、凡そ勉強ということについては、このうえにしようも無いほど勉強したといっている。
当時多数の死亡者を出していた天然痘の予防のために、洪庵は嘉永2年(1849)に古手町に種痘所をつくり、牛の痘苗による種痘事業を開始した。万延元年(1860)にはこの除痘館を現在の緒方病院の敷地(適塾の南側)に移転したが、この頃には北陸から九州に至るまで多くの分苗所を設置して天然痘の蔓延を防いだ。安政5年(1858)夏のコレラの大流行時には、「虎狼痢治準」を刊行して予防策に尽力した。これらの功績は、文明開化に対する洪庵の教育とともに大いに顕彰されるべきものであろう。 場所:大阪市中央区北浜3丁目3番8号 電話: (06)231−1970 ※地下鉄御堂筋・京阪「淀屋橋」徒歩2分 休館日:日曜日、月曜日、国民の祝日に関する法律に規定する休日、年末年始(12月28日〜1月4日) 開館時間:午前10時〜午後4時 参観料:一般 220円(110円)学生 110円(60円) 生徒 60円(30円)( )内は団体(20名以上) 右上へ → |
銅座の跡 銅が重要な輸出品であった江戸時代、明和3年(1766)に銅集めの役所として設立された。銅座は国内産銅の精錬・売買を独占し、諸国の銅山で産出した銅は、問屋の手を通じ、この銅座が買いあげた。この銅は銅吹屋仲間の手により精錬されそのあと海路にて長崎へ回送された。銅座が大坂に設けられたのは航送の便が良いほかに、大坂には泉屋(住友)などの有力、優秀な銅吹屋があり、南蛮吹きといわれる優れた銅精錬法を伝えていたからだといわれる。輸出銅は全てが大坂で精錬されたという。正徳2年(1712)に銅吹屋仲間が結成されたが、その時は17軒であった。中でも泉屋(住友)は別子などに銅山をもち銅吹屋仲間の代表格であった。現在中央区島之内に住友鋼吹所の跡が残っている。また銅の密売を防ぐため古銅類買上げの精細な規定がつくられ、銅器の破片に至るまで銅座が管理した。 今橋3丁目・愛珠幼稚園と銅座の跡 懐徳堂の歴史長い大阪の歴史のなかでも、近世の大阪はとりわけ精彩を放っている。諸藩の年貢米が大阪で売却・換金されるなど、大阪は全国市場の中枢であった。商業と金融は、「大坂衰微すれば天下の衰微」といわれるまでに隆盛。懐徳堂は、そうした「天下の台所」大阪の経済活動を支えた商人たちが設立し、家業の傍ら自ら学んだ学校。江戸時代には庶民教育が盛んになったとはいえ、商人たちが自主的に設立・運営した学校は全国でも異色の存在。 懐徳堂は享保9(1729)年、今を遡ること270年前に、五同志と呼ばれる五人の商人が、私財を投じて設立した。講舎は淀屋橋から御堂筋を150メートルばかり南へ下った今橋三丁目に設立。現代の今橋界隈は高層ビルが林立する大阪のビジネスセンターだが、江戸時代にあっても、ここは豪商が軒を連ねる商都大阪の中心地であった。そのまっただ中に、懐徳堂という近世の日本でも指折りの学問所が建っていた。 懐徳堂では、商人たちが拠出した基本財産を運用して、諸経費を賄った。これは、今日、いろいろな財団が行っている運営方法とほぼ同じである。学生たちも謝金を納めたが、貧しければ紙一折れ・筆一対でも構わないとされていた。また、家業を優先させて中途の退席を認めるなど、町人が学びやすいよう配慮されていた。門下生のなかには武士もいたが、懐徳堂の学則には、「諸生の交わりは、貴賎貧富の別なく、同輩たるべきこと」と記されてる。身分の上下の区別が厳しい時代にあっても、学問の場における平等を認めた開かれた校風であったことが判る。 道頓堀や淀屋橋の例をあげるまでもなく、大阪の町造りには、多くの町人の手が加わっていた。二百近くあった大阪の橋のうち九割以上は、建設・維持ともに町人が費用を負担した。懐徳堂の設立も、このような町人たちによる社会資本整備の一環といえる。懐徳堂は、武士や公家ではなく、町人が都市の担い手であった大阪の特色をよく反映した学校であった。 (2)懐徳堂の教育と思想ところで、大阪の商人たちが学問を志したのには理由があった。懐徳堂が設立された享保期は、元禄の好景気が終わりを迎え、財政引き締めの時期に入っていた。商家の経営も行き詰まりや、不安を抱えるようになっていった。このような不景気のなかで、家産を維持し、家業を永続させるため、商人たちは経営を見直し、新しい処世の指針を模索するようになった。この社会的要請に応えたのが、当時としては新しい学問であった儒学であった。商家の経営に、学問が取り入れられるようになる。懐徳堂でも儒学を中心とする漢学が教えられ、多くの門人を集めた。教授たちは、「商人之利は士之知行、農之作徳なり、皆義にて理に非らず候」と商業活動による営利を肯定する一方で、阿漕な商売を戒め、商人道の確立や企業倫理の建て直しに指針を示した。 ただ、懐徳堂の学問的な成果は、商道徳や日常的な実践倫理の涵養に止らなかった。むしろ、合理的で近代的な「知」を先取りしていたところに、その真価があった。たとえば、大阪を代表する町人学者の山片蟠桃は、天文・地理から経済・宗教にまで及ぶ、該博な知識を集大成。また、同じく富永仲基は、今日にも通用する思想研究の方法論を提示し、天才とまで賞賛されている。彼らの知的営為は、日頃の経済活動のなかで培われた実証的で経験主義的な気風と、物資のみならず膨大な知識や情報も集まってきた大阪という土地柄から生まれた産物であった。懐徳堂はこのような実業と教養を兼ね備えた市民たちが交流する場であった。 (3)懐徳堂の終焉 しかし、明治2年(1869)懐徳堂は閉校となる。その原因は江戸から明治への時代転換であった。幕末のインフレは、すでに懐徳堂の財政を相当に逼迫させていた。さらに、明治政府は幕府が懐徳堂に認めていた諸役免除の特権を廃止したためであった。 明治初年は懐徳堂ばかりでなく、大阪全体にとって重苦しい苦難の時期だった。商人たちは、藩債処分によって大名からの債権回収が難しくなったにも関わらず、新政府への資金提供を求められた。株仲間は解散し、蔵屋敷・銀目取引も廃止されるなど、旧来の商慣行が壊れて市場が混乱した。天王寺屋五兵衛・平野屋五兵衛ら、名だたる豪商たちが没落していった。 打撃は懐徳堂を支える商人たちにも及んだ。こうした維新前後の波乱のなかで、懐徳堂は140年の歴史に幕を降ろした。最後の懐徳堂教授であった並川寒泉は、「百余り四十四とせのふみの宿けふを限りと見かへりて出づ」の歌を残し、堂舎を後にした。 |
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