少彦名命が道修町に鎮座された歴史
自己紹介しますと、昭和17年4月生まれで、集英小学校を出て、国学院大学の神道学科を卒業。以来道修町に住んでおります。趣味としては、建築が好きで、素人ながら、日本建築学会に席をおいております。
又、日本の歴史では、近世、特に江戸・幕府の歴史に興味があり、それらの歴史も取り混ぜながら本日は薬の町・道修町・神農さんについてお話させていただきます。
少彦名神社は、安永9年(1780)10月京都の五条天神宮より分霊を頂き、この地にお祀りしました。それまでは、道修町の薬種仲買仲間の有志団体の中に、江戸時代全国的な風習であった「伊勢講」があり、お伊勢さんへお参りをしていたようでございます。私自身も3回ほど、伊勢まで歩いた事がありますが、大阪から大体四泊五日程かかります。ですから、毎年の伊勢までのお参りは大変であっただろうと推測できます。
やがて道修町で自前の神社を持つことになります。それは何故かと申しますと、薬の検査をする和薬改会所が出来るのですが、今ほど科学的な検証ができません。特に生薬や漢方薬の品質を検査するのは難しいので、仕事が正確に間違いないようにと、神様のご加護が求められ、五条天神宮の少彦名命をお迎えすることになります。当初は大きな社殿を建ててお迎えしたのではなく、この地にあった薬種仲買仲間の寄合い所があり、そこの床の間に天保年間までお祀りしておりました。所が、天保8年の「大塩平八郎の乱」で寄合い所が焼けてしまったため、今社殿がありますところに小さな祠(ほこら)を建ててお祀りしましたのが、天保11年でした。
江戸幕府が倒れ、「国家神道」といわれる明治時代に入りますと、国策として小さい神社は全国的に整理していきました。この神社も、小さな神社だったので、大阪府から近くの神社と合併しなさいという指示がありましたが、道修町としてはそれを拒否し、明治43年10月に現在の社殿のように拡張します。ですから、この神社の大きさは、明治政府が言う最低規模の企画にあう神社で、多分大阪で一番小さな神社ではないかと思います。
近代的な薬品会社の町に4つの講が健在
普通、神社と申しますと、鎮守の森があって広々としたイメージがあるのですが、こちらの神社は昔から奥まった所にあり、今だに名前は聞いた事があるが、場所が判らないという町の中の小さな神社でございます。
規模は小さいのですが、道修町では昔から薬関係会社が「薬祖講」(やくそこう)を組織し、現在は近在の個人も含め四百社近くが加入していただいておりまして、この神社の経済的基盤として支えていただいております。
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ですから、この神社の運営は全て「薬祖講」が面倒をみるという形になっております。お祭も、実行委員会組織で運営されており、古い言葉で申しますと「頭屋」(とうや)組織を伝承、現在も道修町の有力な薬品会社40社が役員になっていただいております。そして、毎年2名を実行委員長と副委員長に選出し、各社の総務部門の方々に委員としてお祭りを運営いただいております。お祭が終わると、また新しい方を選出するという日本古来の村社会的な古い仕来たりが、道修町という大阪の中心街である場所で継承されております。
道修町には「薬祖講」以外に、現在でも石清水八幡宮にお参りする「祈祷講」(きとうこう)、大阪天満宮にお参りする「お湯講」(おゆこう)、三輪明神にお参りする「明神講」(みょうじんこう)という4つの講が存在しており、それぞれの神社のお祭に参拝されております。
バイオテクノロジーを駆使する近代的な薬品会社が軒を並べる大阪の中心地、道修町に、4つの講を現在も伝承されているのは、大変珍しい事であります。そこには、江戸時代より薬を取り扱うことはリスクの大きな商売であり、人命の尊さや不可解さなど、人知の及ばないものに対して、神のご加護を求められてきたのではないでしょうか。
日中の神様を共にお祭りする道修町の歴史
この神社の御祭神は、古事記の上巻に、医薬、温泉、造酒、農耕開拓を司る神として描かれている少彦名命(すくなひこなのみこと)です。
古事記では、少彦名命がお一人で登場する場面が少なく、大国主命(おおくにぬしのみこと)の兄弟となって協力して国を作り固め、常世(とこよ)の国に去って行ったと伝えられています。大国主命が「大」に対して、少彦名命は、神産巣日神(かみむすびのかみ)の指の間から産まれて地上に落ちたと伝えられるほど小さく、正に「小」の象徴。やがて、平安時代になると、体は小さくても、知恵があり、力があるという少彦名命をモデルに一寸法師とか、竹取物語が伝えられて行きます。
スクナヒコナは、、万葉仮名ですので、少彦名という漢字以外に、「少名毘古那」「少比古根命」「須久奈比古命」など様々の古典書に11通りの漢字で表されています。
またこの神社には、少彦名命以外に、中国の十八史略に描かれている古代中国の伝説上の皇帝、炎帝神農氏をお祀りしています。何故、神農さんをお祀りことになるかというと、江戸時代にはお医者さんのお家とか、薬屋さんに像や掛け軸としてお祀りされていました。これは、江戸時代は朱子学や漢学等の中国の学問が大事にされ、長崎を通じて唐薬が入ってくると共に、中国の思想も入ってきたようです。神農さんの末枝は、姜(きょう)性であるといわれています。
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