なにわの学問所 ・ 懐徳堂・適塾に学ぶ
講師:大阪大学名誉教授 梅渓 昇 氏
日時:2001年11月10日(土)午後1〜5時
コース:少名彦神社(梅渓名誉教授講義)正式参拝  →  旧小西邸見学(重要文化財・明治末期の商家)
     大阪美術倶楽部(旧鴻池本宅座敷 扇鴻ノ間) → 適塾 (重要文化財) →  懐徳堂記念碑
 

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少名彦神社(神農さん)
御鎮座年月:安永9年(1780)10月、薬種中買仲間で組織する伊勢講が、京都五條天神社より分霊を道修町の寄会所に勧請し、神農氏とともに合わせ祀ったのがはじまり。
享保7年(1722)、大坂道修町に薬種中買仲間株124人が公許、和薬種改会所が設置されました。薬の安全と商売繁栄を祈願するため、安永9年(1780)、寄会所の邸内に京都五條天神社より少彦名命の分霊を勧請。
その時の文書を見ると「・・・就中此薬種中買商売之輩ハ尊敬いたし朝夕真偽相改大切に売買慎しみ子孫の無窮を可奉祈此寄合処之勧請申例年九月十一日御祭禮之式相勤益々仲間神慮奉恐盡誠心可奉尊敬者也」とあり、当時の仲間はいかに敬神の念が厚かったかが窺える。


神虎の守り文政5年(1822)大坂で疫病(コレラ)が流行した時、道修町の薬種仲間が疫病除薬として「虎頭殺鬼雄黄圓」という丸薬をつくり、神前で祈祷をし世に出した。この時、病除祈願のお守りとして、あわせて施与したのが「張子の虎」。その効能が顕著だったため、以来「張子の虎」が当社のお守りとして世に知られるようになる。

御祭神:
少彦名命・・・日本の薬祖神
神農・・・・古代中国最初の統治者特に医薬を司った。


御神徳:薬、治療、医療、温泉、国土開拓、造酒の神として古典に表れているが、当社では特に薬の神から健康増進の神として御神徳が発揚されている。
例祭日:
 神農祭:毎年11月22日〜23日
 月例祭:毎月1、5、23日


くすりの道修町資料館
開館時間:10:00〜16:30
休館日:日曜・祝祭日・盆休み(8月13から16日)
    年末年始(12月28日〜1月4日)
会 場:3階:くすりの道修町資料館展示室
    4階:資料・ビデオ・図書の閲覧室
交 通:地下鉄堺筋 北浜駅E出口 徒歩2分
    地下鉄御堂筋 淀屋橋J出口 徒歩7分
場 所:大阪市中央区道修町2丁目1番8号
    少名彦神社内ビル3・4階
    電話 06-6231-6958 
展示物:
   @くすりの町のあゆみ A道修町の商い
   B品質管理 C道修町劇場 D結束と繁栄
   E現在から未来へ F企画展示 G特別展示


 

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旧小西邸(重要文化財)
大阪船場道修町堺筋沿い三越百貨店南側に、かつての船場豪商の面影を今に伝える「コニシボンド」で有名なコニシ株式会社の旧本社がある。壁の色から「鳥御殿」と呼ばれた黒漆黒の概観のこの建物は、明治7年(1874)薬種商としてこの地で創業した小西屋が、明治36年に小西儀助商店新社屋として、材木集めと建築に約3年かけて建築。南より表屋(店棟)、主屋(居住棟)、蔵(土蔵)を並置した奥の深い典型的な商家造り。かってあった奥の土蔵から玄関へ商品を運ぶためのトロッコはもうないが、五十人分の食事を賄ったという竃(へっつい)や豪壮な梁組みの吹き抜け天井に往時をしのぶことができる。当初、正面間口14.2間(約26b)、315坪あった敷地は、明治44年の市電開通による堺筋の拡幅のため、西側間口四間ほどが道路用地に供された。しかし、それによ伴う改築により、現在のような土蔵造の重量感ある構えを生み出した。その後、第二次大戦中の大阪大空襲、阪神大震災を経て残り、今やビル郡の中に谷崎潤一郎が描いた春琴抄のような商家の暮らしが確かにこの地に繰り広げられたという記憶を雄弁に語りかける。二階には店棟側に主人の部屋が、中庭に向って婦人の部屋が、その隣に女中部屋があり、主従が共に寝起きし商いに精進した商家の暮らしぶりを充分に偲ぶことができた。今は事務室に改造されているが、店棟と主屋の間にも中庭があり、四季をバックに客を迎えた当時の風流なもてなしは、現在のオフィースの売り買いのみの場としてではなく、一期一会の縁をも結ぶ場、人との結びつきを大切にする日本人の生活態度にもつながるものではないかと感じた。外観だけでなく、内部も華美に流れず、主要な部材に希少な木材をもちいたり、婦人の部屋の欄間もモダンな丸みを帯びた柔らかなデザインが起用され、主人の質実剛健な人柄が偲ばれる立派な建物。
重要文化財の指定を受けているが、一般公開されていないので、今回塾生の辰野さんの口添えで1時間半にわたり特別に見学させていただく機会を得たのは幸運だった。この建物内で丁稚奉公し、アサヒビールや、サントリー創業へ繋がる等、人材を育てた船場の歴史をも物語る貴重な建物。


大阪美術倶楽部(旧鴻池本宅座敷 扇鴻ノ間)

今橋2丁目にある大阪美術倶楽部の4階建ての新刊ビルの中に、旧館として170年前の旧鴻池本宅の一部が「扇鴻ノ間」、として生き残っている。座敷の欄間や取っ手には末広がりの扇がモチーフとしてデザインされ、中庭も当時の風情を今に伝えている。

鴻池家物語

@鴻池家の始祖:
山中新六幸元(1570年生る)、戦国時代山陰を支配した尼子氏の家臣で山中鹿之助幸盛の長男幸元、故あって伊丹在鴻池村の大叔父山中の信直(荒木村重の家臣)に養われる。15歳で元服し、その後深く考える所があり両刀を捨て、商いで身をたてようと決心己が武士の子孫であることを固く秘しその名も新右エ門と改めた

A清酒の醸造と鴻池家の酒造業
当時の伊丹地方は酒造業が盛んであった、始祖新六も慶長の初めまでに酒造業を始め慶長4年(1599)には樽酒を江戸に運んで販売する「江戸送り」を開始した。当時の酒は濁り酒であったが、主人に叱られた鴻池山中酒屋の丁稚が、腹いせをしようと濁り酒の中に灰をいれたところ、翌日には香りのよい清酒となっていたというエピソードがある。

B海運業の開始
鴻池山酒屋の酒は大変評判が良く、元和5年(1619)には大阪内久宝寺町にも店を構え、醸造、販売を行った。また江戸へ酒を大量に輸送するために、これまでの馬による陸上輸送にかわって船による海上輸送を行い、寛永2年(1625)には海運業を始め、さらに諸藩の年貢米を大阪へ廻送したり、参勤交代に伴って国元と江戸間の物資輸送などをつとめた。

C両替商へと今橋開店
酒造業と海運業で財を成した鴻池家は、大名の蔵屋敷にある年貢米などの「蔵物」を担保にして金を貸し付ける「大名貸し」を足がかりに明暦2年(1656)には「両替商」を始めた。「両替商」は金銭売買、貸付、手形振出、預金などを取扱い、今日の銀行のような役割を果たした。寛文10年(1670)には両替商仲間の取締りや幕府の御用両替として公金の出納の取扱う「十人両替」のひとりにも選ばれた。延宝2年(1674)天王寺屋五兵衛を筆頭に多数の両替商が営業していた今橋通に内久宝寺町より両替店を移した。
元禄年間に鴻池家と取引のあった大名は、尾州、紀州以下32藩にも及びますます発展を続け、嘉永7年(1854)には長者番付の最高位で西の大関となり「日本の富の七分は大坂にあり、大坂の富の八分は今橋にあり」と言われるほどの財を成した。

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