テーマ:適塾とその界隈〜幕末の大阪〜
<映画鑑賞>
講師 :大阪大学 名誉教授 脇田 修 先生
日時 :1995年5月27日(土) 午後1時〜4時30分
<講義概要>
映画でも御覧頂いた様に、適塾は非常に歴史の重みがあり、大阪の町の真ん中にあって、しかも江戸時代の町家がそのまま残ったという非常に貴重な史跡であります。難しい事を言わなくても、御出でになって奥座敷で庭を見ながらばんやり座っていますと、何とも言えぬ良い気持ちになります。私も近くまで来ますとよく奥座敷に座って静かに過ごしておりまして、大阪の中でも好きな場所のひとつです。
適塾は緒方家が洪庵先生がなくなられた後も大正時代は病院として所持されてきましたが、昭和の初めにこれを処分される事になりました。緒方家とも相談されましたが、適塾を購入された日本生命のご配慮で、適塾を大阪大学に寄贈いただき管理させていただくようになりました。現在は史跡で重要文化財になっておりまして、大阪にとっても非常に重要な建物で、戦災にも合わず非常にうまく残っております。大阪大学では適塾管理運営委員会がございまして、各学部から選出され、私の様に歴史と関係ある人間は、特別に幹事のような形で、適塾の維持・検証活動もさせていただいております。会は大阪大学そのものではありませんので、OBも随分適塾管理運営委員会に入っており、私の上の教授であります梅渓昇先生も非常に御熱心に取り組んでおられますし、医学部とか理学部の中でも非常に適塾の保存に熱心な方がおられます。学内では、たいへんおもしろい表現がごさいまして「あれは適塾病にかかっている」と言われるぐらいでありまして、私もかなり重傷の適塾病にかかっております。
先程申しましたが、適塾は大阪の町家としましても、戦災で船場の町家は大半は焼け落ちてしまいまして、今あのようを形で残っているのはほとんどありません。奥には、台所も残っておりますので、適塾に行かれましてそういうところも見て頂ければよろしいかと存じます。ちょうどこの適塾の映画ができますころに、解体修理が行われました。周囲、東側は八木通商の建物があったのですが一部を分けて頂いて公園にし・西側は日本生命がビルをお建てになるとき、公開空地を作るという大阪市の取り決めがあるのですが・西側の部分も公園にしていただき、お陰でおいでになりますと良く分かるかと思うのですが、適塾は回りが緑地帯という形になり、同時に西には1880年、明治13年に創立された愛珠幼稚園と銅座の跡がございまして、両方あわせて非常に見事な景観を作るようになりました。私は、大阪にとりましてもあのような形で保存ができましたことは非常に誇るべきことだと思っております。ちょうど、先程御覧になりました映画ができました頃に、大阪でも景観論争がありまして、大阪市の市役所の建て物を立て替えるというときに、私も反対だという文章を書いたことがあります。市役所の後ろにある民間の方が寄贈された歴史的な建物である図書館・中央公会堂は、市役所の古風な建物と調和して並んでおりましたが、残念ながら大阪市が立て替えてしまわれました。ただ大阪市の方も随分気になさいまして、あの建て物も周囲とマッチするようにできるだけ努力されたようであります。そういうことで中之島の一連の建て物についていろいろと議論が行われたということは知って頂ければよろしいかと思います。そういう経過を経て、バブル経済をくぐり抜けいくつかの建て物が今の景観を保持しております。
さて緒々洪庵先生については映画を見て頂きましたので、よくお分かりになったかと思いますが、概略を申し上りますと、文化7年に、岡山県の足守にお生まれの足守藩のご出身で、男3人・女1人の兄弟の末っ子でありました。御父様は文政8年に、足守藩の大坂蔵屋敷の留守居役という形で大阪においでになり・洪庵先宇は大阪とそういう点で大阪と初めから関係が深かったということであります。蔵屋敷は何をやるかというと、だいたい大阪で米を売ったり、産物を売っており、商人・町人を相手にいわぱ外交をやらなくてはならない。侍の中でも蔵屋敷に勤める方は、財政が明るくて、ある程度経済的に折衝ができる人で、少し極端にいいますと、遊びも、文化も分からなくてはなりませんでした。私も平野屋武兵衛という人の記録を元に最近本を書きましたが、武兵衛さんは平野屋孫兵衛という大金融業者の大番頭でありまして、蔵屋敷に行って藩にお金をどのように貸すかという折衝をされております。その時、必ず北の新地に遊びに行き、そこで歌を作ってみたり等と、そういうことができないと蔵屋敷の留守居役は勤まらなかったようです。洪庵先生がお医者さんであると同時に、いろいろ和歌を作られたりしました。洪庵先生はどちらかと言いますと物堅く、非常に気まじめな方でありますが、和歌を作られたりするのは、一つの家の在り方と関係があるのだと私は思っております。文政9年に、大坂の中天遊に弟子入りされ、天保2年から江戸に行って、坪井信道の塾に入られ、蘭学の勉強をされました。天保7年に、一度戻られて中耕介と長崎に行かれて、天保9年に瓦町に適塾室開き、億川百記の娘八重さんと結婚されました。弘化2年に、現在の適塾を購入されて移られます。余談になりますが、書生さんでずっと勉強されて塾を開かれるのですから、洪庵先生はお金がないわけです。考えてみると、適塾は中之島の川に近く船場からいっても一等地で、そのような場所に屋敷を買うというのはたいへんで、どのようにして購入されたかという事を以前に適塾の雑誌に原稿をかきました。結局、今と同じで頭金だけ用意され、購入されると同時に質に入れられます。借り質といいますが、家そのものを天王寺屋さんに借り質にとして入れてお金を借り、全額を前の持ち主の志賀屋忠右衛門さんに払われています。今の方が住宅を買う時に、銀行ローンで頭金を用意し残りを銀行から借りてボツボツ返していくのとまったく同じです。通帳というものも残っておりまして、先生はずっと払っておられて、明治維新後も、死後も払っておられました。適塾を買われる時に、御父様のところに手紙を出されておりまして、御父様から良く頑張った、奮発したと書かれてありました。その後、文久2年に江戸へ行かれました。これは幕府より奥医師として招かれ、西洋医学所の頭取になられましたが、翌文久3年6月10日に、突然喀血され急死されました。この喀血は心労に伴う胃潰瘍ではないかと私は考えております。大阪という町人の多い町でゆっくり過ごされていたわけですが、奥医師は将軍の脈を見るというストレスの掛る任務で、恐らくいろいろ心労があったのではないでしょうか。洪庵先生は、もともとお丈夫な方ではなかったので、早く亡くなられました。映画の中でも随分出て参りましたが、「安逸を思はず、名利を顧みず、唯おのれをすて、人を救はんことを希ふべし、貴賎貧冨を顧ることなかれ」洪庵先生は扶氏医戒之略という医者としての心得を大切にされておりました。又適塾にも掛け軸がありますが、「自然の臣也、あめつちの神の教のほかにわがくすしのみちののりあらめやハ」自然を人為的に傲慢に人間が動かす事ができないと、医師として謙虚に自覚されている歌であります。洪庵先生は『誠に類稀なる高徳の君子である』と福沢諭吉が日記に記した通りの人物であったと思われます。
では、幕末の大阪について少しお話致しましょう。大阪という町は、良くご承知の通り『町人の都』と言われております。日本の江戸時代の都市というのは、城下町が一番人口が多く、江戸という町を考えて頂くと、幕府・将軍の城下町として100万の人口があったのですが、その内の約50万が武士でありました。ですから、江戸は、武士というものを前提としないと成り立たない都市なのですが、大阪は、武士がほとんどいませんでした。私、武士が何人いたのか一生懸命勘定してみたのですが、30〜40万の内、千五百人以下しか武士がいませんでした。しかも、大阪城に来ている武士は、徳川幕府から命ぜられてお城の番に従事し、大阪城の中に入ってしまい大阪の町とはほとんど無関係でした。大阪の町に関係のある武士とは何かと言いますと、大阪町奉行所の町奉行とその配下であった与力・同心でした。あの大塩平八郎も与力でした。大塩平八郎は与力としては非常に特異なタイプでした。これ以外の与力は、大阪町人と仲良くやる人でした。大阪の町人以上に経済の事が解って、そのかわり賄賂を取るのも上手であるという与力はかなりいます。大塩と非常に仲が悪く、しかもたいへん有能であった内山彦次郎という与力がおりました。彼などはその典型であります。平野屋武兵衛さんも内山彦次郎は非常に悪い奴だと書いておりました。幕末、徳川幕府が御用金を大阪町人に課けた時に内山彦次郎は町人みんな呼び出して金を出せと言い、平野屋武兵衛さんも行って、朝から晩まで頑張って遂に五分の一に値切り倒して帰ってきたと自慢で書いておられます。与力は武士に入らない侍で、大塩平八郎はおもしろくない、「何故、おれが与力みたいな仕事をやらなくてはならないのか」という気分が絶えずあった人でした。他の与力は、それでも大阪の町では数少ない幕府の役人でありましたから、大阪の町では悠々と暮らしておりましたし、町人との問もそんなにギスギスしないで過ごしておりました。ですから、町人の側から見れぱ幕府の役人がいても多勢に無勢でたいした影響がないというのが大阪の町でした。時々、幕府の政策で、幕府が生活に影響を与えた天保改革などでは、幕府を意識をする事がありましたが、通常は町人の都として、おそらく暮らせたと思います。
大阪が天下の台所と呼ぱれたのは、要するに諸国の物産が大阪を経由して出て参りました。これは何故かと言いますと、一つは堂島に米市場があったためです。大名が収入を得るために年貢米を売るわけですが、本来江戸で売っても、どこで売ってもいいんですが、これを何故、大阪にもって来なけれぱならないかと言うと、金融の担保に米を押さえているので大阪にもってこなければならなかったのです。それによって、金融と合わさった形で堂島の米の市場が成立しました。他の商品は何かといいますと、私は、大阪は単に金融商業都市ではなく、産業都市だと考えていました。つまり、江戸という町は新興の町であって関東平野にぼつんと政治的に、人為的にできた都市でした。ですから、江戸には重要な産業がほとんどありませんでした。享保ぐらいまでは、上方から物をもっていかないと江戸の経済は全く成り立たないという町であります。一番代表的なのはものは何と言いますと、享保年間に大阪で大火事が起こって、天満の辺りの油屋さんが軒並み焼けた為、菜種を搾った灯り用の油が江戸へいかなくなり、幕府がびっくりしました。油がなくなって町が暗くなると治安上良くないという事で、それ以後幕府は慌てて関東で菜種を育てる事を奨励しました。田沼時代は、そういう事をやっております。その当時は、大阪で火事があれば、江戸の灯りが消えるというほど、江戸は上方の経済に依存しているのが特徴でした。生活必需品を大阪が作っていたと考えていただけば結構です。金属加工業も盛んでした。この近くの靭の辺りでは、釘などの鉄の加工をしておりました。中国山脈の中で加工した租鉄の80%を大阪にもってきて、もう一度加工して、釘とか種々の商品に加工しておりました。適塾の隣に銅座がありました。銅は鉱山で'荒精錬しており、例えば住友では別子銅山で荒精練し、その銅を大阪に持ってきて99.99%という輸出用の竿銅を作っていました。竿銅は非常にきれいな赤い色をしています。輸出用の竿銅は、大阪で独占的に生産していました。他の地域には、そのような技術がありませんでした。近世の初期から荒精練をした銅の中から不純物を取り除く、高い技術を住友家がもっていて、その事が銅精練業者の筆頭という立場を維持させました。住友家が技術を考案したのか、他の家が技術を考案したのか、そのあたりが微妙なのですが、あと十何軒銅精練業者があったようで、大阪屋さんの資料はすこしありますが、今はほとんど残っていません。四ツ橋から長掘、道頓筋の筋に、要するに堀の側にお家がありました。住友家は鰻谷に本邸がございまして、今銀行が計算機センターを建てています。あの時も、少し困ったなと思いました。大阪にとっては住友家の、家の歴史であると共に塑の精練をしていた工場の跡でもありました。大阪の産業の歴史として非常に大事な場所であると住友銀行に掛け合い、精練の跡の穴を凝固してそのまま残す等努力され、鰻谷の本家跡は将来、博物館として残ると思います。私は、大阪の産業歴史博物館として残せぱいいのではないかと思っております。
木綿の衣料品については、大阪の近郊農村が綿花の生産地で、それを大阪にもってきて木綿に加工していました。船場の繊維ファッション街は、歴史的に続いています。大阪の産業は、何かといいますと、大衆的な生活必需品の産業でした。この点では、京都とは異なります。京都は、産業の都市ですが、高級品を作りました。今でも、仏壇や西陣織等をつくっておりますが、大阪は大量の大衆生活必需品によって産業都市になっておりました。京都という町は、地理を考えて頂きますといっぺんに分かるのですが、水がありません。つまり、内陸部から淀川を遡ってしかも淀川からまた馬か車に乗って行かないと京都へ入れません。ですから、重量物を運搬するには、京都は非常に不自由な町です。大阪は、水路を利用して、忽ち何処へも行けるものですから、大阪では重量物のある産業まで成り立つわけです。京都ではそれがうまくいかないので、江戸時代では、京都は結局住み分けをして高級品だけが残っていくことになりました。実は住友家も、最初は示都で商売をやっておられたのですが、大阪に進出をされ、大阪が基盤になってきました。三都と申しますが、三つの町は産業から見て三つの性格の相違があります。その産業の上に金融業が成り立ってくるわけです。適塾の一本後ろの南側の筋が、今橋の筋ですが、ここにご承知の様に鴻池さんがあり、平野屋五兵衛、天王寺屋五兵衛、当時日本でも有数の金融業者が軒を並べておりました。その中で、少し残っているのは、鴻池さんだけであります。実は、あれは惜しいことをしまして、美術クフブが鴻池家からあの建物をお買いになりました。そのまま鴻池家の建物があったわけです。何時できたものかと言いますと、大塩焼けの後、天保の乱があって、その後に建てられたお家です。ところが、美術クラブがその長屋門を撤去いたしまして、三宅さんという方に長屋門の部分を売られました。そこに、鉄筋のビルを建こられました。ですから、今は鴻池屋は、表から見ると本邸の跡とはわかりません。美術クフブは、重要文化財も取り扱っており、木造家屋では火災の問題があるので、鉄筋のビルにしたのだとおっしゃってました。ですから、今は前の部分は美術クラブの近代的な建物が建っております。ただ、奥の方には、鴻池家の本邸や、お茶室まで残っております。長屋門の方も、生駒に三宅さんという方が『町人資料博塑館』を建てられまして、船場の展覧をやっておられます。これは非常に大阪らしい話なのですが、なぜ三宅さんという方が長屋門を買われたかといいますと、噂で聞いたのですが、三宅さんは若いと
きに鴻池の斜め向かいに小僧さんとしてお勤めで、づっと鴻池男爵が馬車で出かけられるのを見ていて、俺もあれぐらいになりたいものだと努力され成功された方で、思い出があるので長屋門を取り壊すのは惜しいと思われて生駒に移築された訳です。適塾の裏の方は、日本の金融センターでした。適塾とも関係あるのですが、大阪というのは、国際貿易の都市であると私は思っております。これは、産業を通じて貿易と結びついている町であると考えております。大阪は天下の台所・町人の都であると皆さんおっしゃるのですが、貿易と関係あるとは、あまりいわれない様です。例えば、銅。江戸時代に日本が何を輸出したかと言うことです。輸出品については、今から見ると不思議なのですが、初期は金、次に銀になりましたが、その二つは急速に実に早く衰えました。金については、戦国時代から秀吉時代までは多くの金山が発掘されますが、佐渡の金山は随分後まで残りますが他はすぐにだめになってしまいます。その次に銀になります。近世の徳川の初めころは銀を輸出しておりました。金が出る所は必ず銀が出ましたので、金から銀への輪出になったと思います。元禄の前ぐらいからは、主たる輸出品は全部銅になりました。たまたま、その頃に別子銅山が発見されました。銅は、ヨーロッパにも出すのですが、ヨーロッパよりはむしろ長崎貿易は史国との貿易が多く、中国はあれだけ大きな国でありながら、銅はほとんど採れないのです。中国で銅が採れるのは、三国史の蜀の国、四川省だけです。その距離を考えて頂くと、四川省から北京や上海へ運ぶのでしたら、日本から持っていた方が近いので、実際には日本から銅を持っていくといつのが'一番大きな輸出品でした。それ以外に、いろいろなものが輸出されました。中華料理の材料や、いりなまこ、椎耳で、干天などは大阪の近郊で作ってわざわさ大阪商人が中国へ輸出しておりました。しかし、大阪は輸出用の銅を独占的に作りましたので、そういう意味で貿易と密着した都市でありました。
輸入品としては、毛皮などいろいろあるのですが、特に大きいのが薬なのです。船場の道修町にあれだけの薬屋さんが集まり、本の大きな製薬企業が集中したかといいますと、これは、もともと大阪に朝鮮や中国から輸入した薬の材料がはいってきました。そのような基盤のあるところに、幕府が享保年間に、徳川吉不が薬種をあまり輸入ばかりしているとお金がかかるだけではなくていろいろ問題が起こるので、できるだけ日本で自給したいと考えました。積極的に自給できるかを日本国内で調査し、取ってきた薬種を道修町の製薬業者に依頼をして品質検査しておりました。つまり、日本でできた日本製の薬種を、一度道修町で検査し薬にしていましたので、道修町は日本の薬種業界のセンターの機能を持っていました。その事が歴史的に後まで続き、今は日本を代表する製薬業者が出て来るという事になりました。ですから、地位というのは歴史的な前提の上に成りたっているのが道修町でありまして、町の中に神農さんという中国の医療の神様と、少彦名という日本の医療の神様を祀ってあります。コロリが流行した時に、神農さんがコレラ除けの呪いといって薬を出され、張り子の虎が売れました。当時はコロリを「虎狼痢」と書き、コロリに効く丸薬を作りました。この薬は飲む丸薬でなく、効かない事は初めから分かっているので、着物の襟元に2つ入れておけぱコロリにかからないとりうお呪い用でした。幕末の頃、安政5年から6年にかけてコロリが流行り非常に恐れられました。平野屋武兵衛さんの幕末の記録にもコロリの事が書かれており、毎日葬式が出ない時がなかったので、とうとう棺桶がなくなり椎茸の箱に入れて千日前の火葬場にもっていったと書いてありました。絵を見ておりますと、確かに椎茸箱と書いてある箱の絵があります。ただ平野屋武巷箆さんは楽天的な人らしく、コロリが大流行して皆が恐れおののいている最中に、毎日千日前の火葬場に行ってその様子を見に行き記録を書いておられるのですごい人だなあと思います。そういう人には、コロリも除けて通った様で、本人ケロリとして元気でした。
★ 脇田先生のお話、どれも興昧があり全部書き出しました。有り難うございました (原田彰子)
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