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参加者からのメッセージ
釋 英彰 (常光寺住職 淀川区東三国 塾生)
 「京橋駅に1トン爆弾が落とされたとき、森ノ宮の軍需工場に動員されていました。当時は中学3年生。駅のすぐそばの私が避難した防空壕の隣の防空壕は全滅しました。米軍は、翌日が終戦ということを知っていて、無抵抗の学生・市民が動員されている工場を爆撃しました。「そこまでやるか」という気持ちでした。

 60年間、思い出したくもない体験でした。平和を祈って、願ってすむようなことではありません。実体験をもつ者からすると、軽々しく物語のように話してほしくないという気持ちです。

  人間がいる限り戦争は起こります。人間は皆、自分は正しく他人は悪と思っています。この気持ちがある限り戦争はなくならない。日本を取り巻く環境も厳しい。どう切り抜けていけばいいのか。『平和への祈り、願いなどと、スローガンばかりが跋扈する世の中。本質的なことを見つめ考えなければなりません。」
英彰先生は、次の「表白」を慰霊碑の前で読み上げてくださいました。
表白(ひょうびゃく)       常光寺 釋 英彰

 六十年前の八月十四日、明日は終戦という日の午下り、私はここ森之宮砲兵工廠に来ていました。その時私は中学三年生でした。勤労動員に駆り出され戦災跡地の片付けに来ていたのです。

  その日の作業の予定もあらかた終り後片付けを始めた頃、空襲警報が鳴りわたりました。B-29の来攻です。私は友人と一緒に防空壕にかくれていたのですが、そのすぐ傍らに1トン爆弾が落ちてきました。耳をつんざく炸裂音。粉塵の中で壕は半壊となり入っていた者は泥まみれの半死半生の有様でした。ようやくのことで外へ這い出してみると隣の壕は全壊、中に居た人は全滅でした。

  その惨状は思い出すのも厭、言葉にする気にもなりません。大阪の街は二十年三月の大空襲以来、三、四ヶ月の間にミナミからからキタ迄そして、その先の方まで見渡す限り何も残さぬ焦土の荒野となっていました。交通機関もありませんので焼跡を徒歩で這ったものですが、途中あちこちの川面に業火を逃れて川に飛びこんだものの、結局は焼死した人達の焼けただれた手が浮かんで見えました。その光景はいまも脳裡に焼きついていますが、二度と目にしたくないおぞましい体験です。
 
  終戦以来六十年の歳を、人は変り、歳々年々世は遷り変わります。この間日本人はひたすら平和を守り進歩と繁栄を求め励んで来ました。今日の我々は豊かで安定した生活を享受していますが、あの厭うべき戦争は後を絶ったのではありません。二十世紀の後半には世界の各地で数多くの紛争があり一触即発の危機も何回も起こりました。今日でもその状況は変わっていません。わけても現在の日本周辺地域は危険の多い地域となっています。

 戦争を厭わぬ人はないと信じますが、その人間が何故ここまで争わねばならないのか。私はそこに底知れぬ人間の悲しみ嘆きを感じます。人間は私執のかたまりです。自是他非の心を捨てられぬ哀れで哀しい存在でしかありません。ひたすら願い求めても平和がもたらされるとは思えません、戦争をなくすためには人間の我執を克服する他に途はないのでしょう。

  佛教は我執の心を遠く離れ、真の智慧と慈悲、そして平等の精神に立つことを教えています。み佛は我執のみちた人間が真実に目ざめ平安静寂の世界に導かれ行くことを願っておられるのです。その大いなる願いに耳を傾けて共生の道を訪ねて参りたいと存じます。

  み仏をたたえ、讃歌歎佛偈をとなえます。 釋 英彰啓白

   


辻和子さん(元小学校教諭)

  「10年前まで、小学校で教えていました。国民学校や集団疎開など簡単なことしか教えてきませんでした。学校で生徒に戦争の話をしたことはあまりありません。4年生を担任した3月13日だけは、生徒に話しかけるようにしました。文集を作った折に、私も「わたしが4年生の時」という作文を載せました。 これから戦争のことを伝えていきたいと思います。」
わたしが4年生の時
 
昭和20年3月13日 
わたしは4年生だった

この日の夜 大阪は大空襲で 
一面焼野原になってしまった

警戒警報から 空襲警報に サイレンが変わった時 
大阪の空にはB29がやってきた

編隊を組み 次から次へと 
ばく音を  とどろかせながら・・・

雨あられのごとく 
落ちて来る 焼い弾

真夜中 
真っ赤に燃え盛る火の海の中を 
私は逃げた

親 弟妹と はぐれて 
ひとりで 逃げまくった

大きな 火の粉が飛んできて 
身体に ふりかかる

上から市電の電線が焼けて 
落ちて来た頃

力尽きた人達が
目の前で 倒れていく

倒れている人に つまづき 
倒れている人を よけながら

夜通し 歩き続けた

周りの火が おさまりかけた頃
なんば附近で 私もしゃがみこんでいた

その時 
黒い雨が降って来たことを  覚えている

やがて東の空が白み始め
あたりが明るくなって来た時

町は なくなっていた

戦争! 二度と経験したくない させたくない

今の平和な時代に生きる あなた達のために
担任 辻 和子
 
塩本妙子 (OL・塾生)
 戦争体験のない私達でも子供の頃、映像や文章で戦争を伝えられ、その惨さを身近に感じるかの様な、日常がありました。体験した方々の、二度と過ちは繰り返さないという、全身全霊をかけた訴えが、子供の心にも熱く迫ってきていました。

  反戦平和は、国民全体の誓いであリ、祈りであるという常識を疑っていなかったから却って私は、「日本は平和ボケで心配だワ」などと軽口を叩いていました。

  現在、軍国主義を勇ましく唱える人が堂々としている社会に、戸惑いと不安を抱いてます。右か左か、日本は何故こんなに極端なんだろ。

  …今改めて、戦争を静かに見つめたいです。
 
山本ゆき (塾生:京橋駅爆撃被災者慰霊碑献花と参拝の準備を担当)
 「英彰先生に読経をお願いしてみて」と原田代表から言われたとき、まさか、現実になるとは思ってもみませんでした。ご住職に話を切り出してからは驚きの連続でした。慰霊碑での読経を快諾された上に、「衣を着けて正式にやりたい。」と言われたのです。当日は一番格調の高い紫の衣でお出ましになり本当に驚きました。が、この驚きは、まだまだ序の口でした。

 打ち合わせの段階で、いろいろとご指導してくださるご住職に、並々ならぬ気迫を感じ、こんな小さな会のイベントなのに「どうして?」と思っておりました。

 「どうして?」が解けたのは、「ピースおおさか」から移動して来る参加者の到着を慰霊碑の前で待つ間、ご住職から「これを読んでいいか」と差し出された「表白」を読ませていただいたとき。ご住職自身が、60年前の8月14日、京橋駅の空襲で、九死に一生を得、生き地獄を体験されておられたのです。「表白」には、その体験と平和への願いが綴られていました。

  アイルコレモタに移動し、すいとんや芋つる料理を味わったあと、ご住職は、「私も京橋で空襲を受けた。60年の間、思い出したくもなかったし、二度と見たくない光景だった」 と、60年間閉じ込めておられた気持ちを吐露されたのです。

 戦後 60年が経ち、戦争の風化が危惧され、語り継ぐ難しさが言われていますが、逆に、「今、語っておかないと」との思いでおられる戦争体験者も多いことが今回のイベントでわかりました。今後の塾塾の活動にも示唆をいただいたような気がします。

  下見をかねて何度か慰霊碑を訪れました。暑い盛りで「60年前も、こんなに暑かったのかな」などと漠然と思う程度でしたが、本番で、大空襲を体験された方々からお話を伺って、犠牲になられた方々、生き地獄を目の当たりにされ、そのトラウマを抱えながら今日まで生きてこられた方々に思いを馳せております。「まさか、まさか」の連続の貴重な体験をさせていただきました。
 
毎日新聞(左)と朝日新聞(右)がイベント予告の記事を掲載してくれました。

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