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 『ピース大阪見学と京橋駅爆撃被災者慰霊碑献花体験談に戦後を味わう会
■ 開催日  
2005年 8月6日
■企画・製作   熟塾 原田彰子
■講師 関西大学名誉教授 小山仁示氏
■慰霊碑参拝 釋 英彰師 速水昭隆師
■戦争体験談 徳光清子さん(花外楼大女将) 樋口裕司さん
 今回のイベントは、毎日新聞と朝日新聞に予告の記事が掲載され、新聞を見て参加を申し込まれた方が10名おりました。その中で、池田市の中島民子さんは、60年前の8月14日、B29爆撃機が大阪陸軍造兵廠を爆撃し、 1トン爆弾が流れ弾となって京橋駅の片町線ホームを直撃し、ホームが一瞬にして生き地獄化とした光景を目の当たりにした一人でした。

 中島さんは、今回のイベントで私たちが、京橋駅爆撃被災者慰霊碑献花式を行うことを毎日新聞で知り、「60年間、心の中で手を合わせてきたものの、一度も慰霊碑を訪れたことがなく、一度参拝したいと思っていたので参加した」とのことでした。

 同じように新聞記事を読んだという80代の女性から、「参加したいけれど足が不自由で行けません。どうか、私の気持ちだけでもご一緒させてください」との電話をいただきました。

 45名が参加。実際に、京橋駅空襲の惨状を目の当たりにされた人、大阪空襲を体験された人、家族に体験者がいる人も参加してくださいました。おばあちゃんと一緒に参加した10歳の女子が最年少。最年長は86歳の塾生。卒論にしたいという大学生や「もっと、戦争体験を子供たちに語ってくればよかった」と悔いている元小学校教諭。「平和への祈り、願いなどと、スローガンばかりが跋扈する世の中。本質的なことを見つめ考えなければならない」とご自分の空襲体験を語られたご住職。参加者一人一人が、「戦争は繰り返してはならない」と誓いを新たにされたのではないでしょうか。 (原田彰子)

 
中島民子さんにインタビュー

右が中島さん 左は原田代表
 中島さんは、終戦当時14歳の女学生。

 「勤労動員で森ノ宮の軍需工場で働いていました。工場が爆撃され、急降下するB29を見ながら、防空壕から防空壕へと逃げました。途中、1トン爆弾が落とされた京橋駅付近の路上で、多くの焦げた遺体を見、駅の橋には、手足がぶらさがっているのを見ました。恐ろしかったです。

  環状線が動くまで帰れず、父親が迎えにきてくれるのを待ちました。工場では、36人が死亡し、遺体の確認をさせられました。遺体を運ぶトラックからは手足が見えていました。」

  60年を一区切りに、慰霊碑に一度お参りしたいと思っておりました。」
 
◆ピース大阪見学 小山仁示先生が案内してくださいました。
 小山先生は、まず、入り口前の母子像について説明。「この像を見落としてすぐ中に入る人がほとんどだか、必死に子供を守ろうとしている母親を見てほしい」と。戦禍の中を逃げまどう母と子をイメージして、1945年に粟津潔氏が作った像です。

写真左上:母子像(粟津潔作) 

写真右上:京橋駅に落とされた1トン爆弾の模型 

写真左下:床下にはめ込まれた焼け野原になった爆撃付近の模型を見る 

写真右下:大阪大空襲のビデオに見入る

 
京橋駅爆撃被災者慰霊碑献花と参拝
 
 1945年8月14日、大阪陸軍造兵廠を中心に爆撃をうける中、午後1時過ぎに多くの人が行きかう京橋駅に1トン爆弾が投下され、身元がわかる人だけで200名、身元不明は500名とも言われる人々が犠牲になりました。大阪大空襲京橋駅爆撃被災者慰霊碑に献花し参拝、平和の礎になった人々の冥福を祈りました。
釋英彰師と速水昭隆師による読経で、一人一人お焼香をさせていただきました。  
中島さんは念願の参拝を果たされました。平和の祈りは、子供たちに受け継がれねばなりません。最年少の森川愛ちゃんも献花してくれました。
 
◆体験談に戦後を味わう会 (アイルコレモタにて)
  
  すいとん・芋つる料理を味わう  
 堀川洋一・ 花外楼本店総料理長(写真・44歳)に、すいとんや芋のつる料理など戦中・戦後の食卓を再現していただきました。
・芋つる 平天
・千切大根
・赤ずいき 胡麻和え
・鰯 青ずいき 酢物
・おから
・糸瓜 さつま芋

堀川料理長
・団子汁 葱 青身
・きび おやき
・はったい粉饅頭
 
・麦御飯 ・麦味噌汁 あげ 豆腐 葱
 「当時のまずい味にして」という原田代表の注文に、戦後派の堀川料理長は頭を悩ませ、高知の実家のご両親に電話でアドバイスを求められたとのこと。一流料亭の料理長ですから、まずい味(?)に近づけるのに難儀されたと思います。

  素朴な上品な味、ヘルシーこの上ないメニューで、 アイルモレコタの定番にしてほしいという要望が出されました。
 
 
 体験談を聴く 
徳光清子さん 
*花外楼4代目女将さん。昭和14年大手前高女卒後、大阪府立女専英文科卒、教師経験も。店は、天保創業以来「花外楼」と命名されて130年近くになる。 明治8年大久保利通・木戸孝允・板垣退助・井上馨・伊藤博文の5人による立憲政体へ向けての大阪会議が、「花外楼」で開かれた。

 昭和20年3月から始まった大阪大空襲時、徳光さんは教師をされていて勤労動員の生徒の付き添いで爆薬工場などをまわっておられました。当時のお話やご両親が防空壕には避難せず、仏壇の前に座っておられたこと、7件先まで焼けたものの店は難を逃れたこと、終戦の翌日8月16日に父親が死亡し、枚方の軍需工場にいた徳光さんは、線路の枕木を伝って帰ったが、父親の死に目には会えなかったことなどを語ってくださいました。

 最後に、「精神力でここまできました。もっとつらい思いをされた方は大勢います。」と語られる徳光さんに、常に前向きに生きようとする姿勢と本当の芯の強さを見る思いでした。

 
樋口裕司さん
*「欲しがりません 勝つまでは」を自費出版し戦争体験談を語り継ぐ活動を展開。
 終戦の年、樋口さんは大阪市立御幸森小学校の6年生。中学1年から学徒動員があり、小学生の樋口さんは、集団学童疎開で奈良へ。

  御幸森小学校の校長先生に軍国主義をたたきこまれたこと、疎開先では、フライパンで焼いたいなごを食べれなかったこと、真冬の銭湯から帰る途中手ぬぐいが凍り、それでちゃんばらごっこをしたこと、「娯楽がないから、何でも遊びにした」と当時を振り返られました。

 「運命の昭和20年3月13日、大阪大空襲で西の空が真っ赤になっており、いかにして戦争から逃れるかを考えました。戦争の悲惨さ語り継いでいきたい」と述べられました。
 
 

参加者で記念の写真を撮りました

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